マイクロラーニング
隙間時間に少しずつビデオや記事で学べるマイクロラーニング。クイズに答えてポイントとコインを獲得すれば理解も深まります。
ファンクショナル・トレーニングとは?
単純な質問をしたいと思います。ファンクショナル(機能的)とは何ですか? ‘ファンクショナル’は、様々な人にとっての、様々なことを意味していることから、私はこの問いかけをするのです。よく使用される用語でありながら、はっきりとした明確な意味を持たず、多くの誤解があるようです。コーキネティックでは、ファンクショナルという用語は、ひとつの意味を持っているものではなく、あなたの目の前に立って、あなたが評価、治療、トレーニングをしようとしている人に関連しているものです。 質問は、ただ単にファンクショナルというのではなく、“何のためにファンクショナルなのか?”、“誰のためにファンクショナルなのか?”である必要があります。BOSUの上で3つのダンベルをジャグリングしたり、スイスボールの上で膝立ちしたりすることは、ファンクショナルに対する、私の見解ではありません。あなたが、誰かがBOSUの上でテニスをしたり、スイスボールと共にランニングしたりするのを、最後に見たのはいつのことですか? ファンクショナルムーブメント=機能的な動きは、数えきれないほど存在しますから、様々なハードルや棒を用いる5~6種のスクリーニングでファンクションを定義しようとすることが、ファンクションが何であるかについての真の見識を与えてくることは決して無いでしょう。質問は、“あなたはファンクション(機能)をテストしていますか?それとも、ただ単にテストをテストしていますか?”ということです。あなたの行っているテストは、個人のファンクションに関連がありますか?他に行うべきテストが無いからといって、そのテストを行っていませんか? 私達は、身体の生体構造を鍛えることに、多くの時間を費やしています。これから、私達は、人々のファンクション=機能を鍛え始めなければなりません。生体力学や筋機能といった動きの解剖学は、それぞれの異なる機能において変化をするでしょう。単純な解剖学的モデルは、21世紀では、もはや有効ではないのです。私は、ボクサーにランナーと同じようなトレーニングや治療を施したいのでしょうか?決してそんなことはありません!研究を伴う特異性の原理は、一般的に、特定の動作パターンをトレーニングすることによる影響が、他の動作パターンに及ぶことは、ほとんどないことを示しています。これは、ボクシング特有のトレーニングは、ランニングパフォーマンスの向上には、ほとんど影響しないであろうということを意味しています。そして、それは、ベンチプレス、もしくはラット・プルダウンが、ボクサーやランナーに与える影響は、更に少ないということを意味しています。ただ単に生体構造を鍛えることが、トレーニング効果の繰り越しを生むことはほとんどありません! それが、私達が、コーキネティックにおいて、クライアントが自ら、彼らにとってのファンクションを明確にすることを好む理由なのです。クライアントの個人的なファンクショナル・ニーズを理解することによって、あなたは 極めて適切な、正真正銘の、特定のリハビリテーション、トレーニング、パフォーマンス・プログラムを作り出すことができます。クライアントを関わるトレーニングが本当の意味での、パーソナルトレーニングになるのです。 コーキネティックにおいて、私達が唱えるファンクショナル・ムーブメントの基本原則が、何がファンクショナルであるかを定義する手助けをしています。ファンクショナル・ムーブメントの基本原則の数例を挙げるならば、私達は、ファンクションは統合的、3次元的、タスク駆動的、動的であると信じています。これに生体力学の知識と加えることにより、私達は、クライアントのファンクションを本当に理解し始めることができます。速く、動的に、楽しく工夫された評価技法を用いて、実際にクライアントに動いてもうことによって、私達は人々の動作を評価することができます。それが、動作問題解決のプロセスであり、本質的かつ、特有のトレーニングなのです。
骨盤前傾はじわじわとあなたを葬っているのか?
ほら、かなり引き込まれるセンセーショナルな見出しでしょう!引っかかりましたね! 私は、骨盤前傾(APT)と骨盤前傾が引き起こす可能性がある問題について、最近の議論に基づき、手短かにブログを書こうと思いました。これは決して独創的な投稿ではありませんが、すたることの無いテーマです。実際に、ただの理論ではなく、このテーマに関する研究に少し焦点を当てた投稿は、山のようにある、ストーリーとしか呼べないようなものと比較すると、大海の中の一滴にしか過ぎません。これらのストーリーは、“XがYを引っ張るとZ(一般的に痛み)を引き起こす”という生体力学的な理論が多い傾向にありますが、それを裏付ける真の科学的根拠の数があまりにも少ないのです。 その理論は、このような感じかもしれません:長時間の座位のせいで、股関節屈曲筋が緊張するため、腰椎前彎を増大させる骨盤前傾を引き起こし、腰痛を引き起こします。 控えめな骨盤前傾は、腰痛、鼠径部痛、股関節痛等、実に骨盤に近いどこかに少しでも関連のある、あらゆる痛みの原因として非難されます。身体の中間点であることが、非常に多くの事の原因になっているのかもしれません。 ‘ドクター・グーグル’(ネットで検索)やフェイスブック(もしくは同様のソーシャルメディア)をチェックしてみてください。非常に多くのくだらないものが次々に出てきます。これは、グーグルで“骨盤前傾”と入力した検索結果の1ページ目です。 最初に、骨盤傾斜に関して、何が正常で、何が正常でないか、少しでも多くの知識を持つことがここでは重要です。数多くの罪を着せられる可哀想な骨盤前傾は、これら全ての問題に関する利用可能な研究において、確かに、前彎増大というような関連因子や、関連性があり、無症状の集団よりも痛みがある集団の方でより高頻度に見られます。 この研究、”Assessment of the degree of pelvic tilt within a normal asymptomatic population ( 正常で無症状な集団における骨盤の傾斜角度の評価 )”では、これを正確に調査したかったのです。彼らは、無症状で痛みの無い人たちの骨盤傾斜に着目しました。 彼らは、私達のほとんどが骨盤前傾を有していて、実に85%もの男性が骨盤前傾を有していることを発見しました。つまり、ジムで男性を無作為に10人選んだら、8.5人は骨盤前傾であるということを意味しています。女性では、この数字は75%まで下がりますが、それでも大多数です。もし骨盤傾斜がこれら全ての痛みに対して非難されるのであれば、私達のほぼ全員が骨盤内や周辺の痛みで、苦しみ悶えながら歩いているのは間違いないのではないでしょうか?たった9%の男性が、伝説的な骨盤“ニュートラル”位を有しているのです!よって、再びジムで無作為に10人を選んだら、1人の男性の90%(一人未満)だけしか骨盤のニュートラル位を有していないことになります。女性では、この数字は少し大きくなり、18%まで上がります。 これは主に治療家やトレーナーによって、上記の研究よりも初歩的な方法で評価され、しばしば骨指標、すなわち上前腸骨棘( ASIS ) や上後腸骨棘(PSIS )、そしてお互いの関係性を確認することによって評価されています。 この研究、“Variation in Pelvic Morphology May Prevent the Identification of Anterior Pelvic Tilt ( 骨盤の形態学における多様性は、骨盤前傾の識別を妨げる可能性がある )”は、骨の前後・左右対称性において、かなり大きな多様性を発見しました。骨盤は全て具合悪いように思えるかもしれませんが、実際には、それはただ各人の自然な骨の形状なのかもしれません。おそらく、第一に多様性が問題ではないこの場合では、触診は骨盤前傾を計測するのに、あまり確実な方法ではないのかもしれません。 無痛であるためには、完全に対称な骨格と姿勢が必要であるというのは、私達の思い込みであり、私達の間に見られる姿勢ではなく、完全に対象な骨格と姿勢が生まれながらの正常なデフォルトであるというのは、間違っているのかもしれません。 姿勢に関して言えば、ニュートラル、あるいは整ったアライメントという考えは、身体をニュートラルに回復させる、あるいはバランスを保つことを目的とした、100以上の継続的能力開発(CPD)コースの数々を生み出しています。全てのエビデンスは、私達のほとんどがニュートラルではないという事実を示し、痛みに関しては、恐らく関係ないでしょう! 先程、お話したように、骨盤前傾は、腰椎前彎の増大によって腰痛を引き起こすとされています。この研究、 “Lumbar lordosis: study of patients with and without low back pain ( 腰椎前彎:腰痛を持つ患者と腰痛を持たない患者における研究 )”では、腰痛がある腰椎前彎の女性と腰痛の無い腰椎前彎の女性との間に、違いは発見されていません! この研究 “Low back pain and lumbar angles in Turkish coal miners (トルコ人炭鉱作業員における腰痛と腰椎の角度 ) ”も同じことを示していて、腰椎の角度と腰痛には相関関係は無いことを発見しています。 よって、私達のほとんどが骨盤前傾を有していますが、経験する腰痛とは相関関係が無いようです。 座位は、骨盤前傾の原因として非難される主なものの一つです。この研究、“Use of intermittent stretch in the prevention of serial sarcomere loss in immobilised muscle (不動の筋に置ける連続的な筋節喪失の予防における断続的なストレッチの活用 )” では、1日30分の、単に動くだけで得られるようなストレッチでさえ、関節可動域を維持するのに十分であることが発見されています。怠け者のろくでなしでさえ、ベッドから起き上がり、仕事へ行き、コーヒーを作り、夕食を調理したりします。おそらく、これだけでも合計すると、必要とされている30分になるでしょう。 この研究、“Effect of Changes in Pelvic Tilt on Range of Motion to Impingement and Radiographic Parameters of Acetabular Morphologic Characteristics (骨盤傾斜の変化がインピンジメントのある関節可動域に与える影響と寛骨臼の形態学的特徴のX線写真パラメーター )”では、動的な骨盤傾斜と大腿骨寛骨臼インピンジメント(FAI)の関係性に着目しました。彼らは、骨盤前傾の増大は、大腿骨寛骨臼インピンジメントの早期発生をもたらすかもしれないと提唱しました。 最初に、これは症状のある集団を用いた後ろ向き研究でした。前向き研究によって、理論に基づいた結論の信憑性が高まるかもしれません。 では、骨盤前傾と関連しているかもしれない大腿骨寛骨臼インピンジメントが、どのように股関節痛と関連しているのでしょうか?この研究、“Radiographic Prevalence of Femoroacetabular Impingement in Collegiate Football Players (大学フットボール選手における大腿骨寛骨臼インピンジメントのX線写真にみる有病率 ) ”では、なんと95%の無症状の大学フットボール選手が大腿骨寛骨臼インピンジメントを有していました。もしあなたがスポーツをし、骨盤の動的な運動を沢山経験すれば、何らかの形の大腿骨寛骨臼インピンジメントを有しているかもしれず、そして、それは痛みを伴わない可能性が高いのです。 私達はまた、位置と運動はそれぞれ別物であることに気付かなければなりません。私は、男性のわずか9%しか有していない、伝説的骨盤ニュートラルを有しているかもしれませんが、私の骨盤は動的に大きく傾き、それによって、私の股関節の骨の本質に影響を与えています。同様に、その姿勢の位置からあまり動くことのない、ほぼ静的な骨盤前傾を有しているかもしれません。よって、静的な測定は、動的な測定とはあまり関連性がなく、何らかの形式での動的測定のメソッド無しで得られる結果は、単に推測でしかないのです。私達は皆、推測や思い込みは全ての大失敗の元であることを知っています。 通常の臨床環境、あるいはジムの環境において、大腿骨寛骨臼インピンジメントの早期発生を予測する研究で使用された、時間のかかるスキャン検査とモデリングの全てが無い状態で、どのようにこの動的な骨盤傾斜を測定しますか? 私見ですが、私達の姿勢は、それが動かない時、より問題のある、関連性のあるものになるのではないでしょうか。私達は、姿勢自体が問題であると示す前に、静的な姿勢からの推測ではなく、その特定の姿勢が、実際に動き変化することができるかどうかを評価する必要があります。 最後に、多くの科学的証拠は存在しませんが(ちなみに、複数のエピソードは証拠ではありません、骨盤前傾は実際に“矯正”されることができるという話もあります。 あなた自身の、あるいはあなたのクライアント/患者の骨盤前傾にストレスを感じるのをやめて、より生産的に時間を使いましょう。
リハビリテーションにおける教育 – それは一体何を意味するのか…?
教育、教育、教育。現代の筋骨格系の臨床に関連して、この言葉をどれくらいの頻度で耳にするでしょうか? ごめんなさい、間違えました。教育&運動、教育&運動、教育&運動 : ) いつだって答えはシンプルです! しかし、教育もエクササイズと同じように、非常に一般的な言葉で語られながら、実際に適用するためのフレームワークがほとんどないという問題を抱えているのです。どのガイドラインをみても、教育が治療の中心であるかのように示していますが、実際には何の方向性も示されていないことが多いのです。私には、セラピストが不確実性に直面し、より伝統的な視点に戻ってしまう理由が分かるような気がします。 では、教育とは何について? いつ? どのように? 誰に対して? よくよく考えてみるとこのような疑問が湧いてきます。教育はここ数年、痛みに関する教育に乗っ取られていますが、実際には筋骨格系の臨床の根幹を成しています......永遠に。教育については、私が授業でたくさん話していることですが、生徒は、“ベン、早く本当の治療の話をしてくれ、こっちは退屈しているんだ”と感じているのが私には伝わってきます。 教育が適切な治療と見なされますか? 私はまだ確信していません。 人は常に情報を求めてきた これは今に始まったことではありませんね! “私の今回の腰痛は、いつもより少し長く続いているので、診てもらった方がいいと思って”と来院される方がよくいらっしゃいますね。 例えば、腰痛は2~6週間続くことがあり、これは全く普通のことだと私達は知っています。しかし、これまで数日間しか問題がなかった人にとっては、おそらく少し心配になり、ストレスの多い状況で膨らんでくる心配を減らすために、何が起こっているのか知りたくなるのでしょう。 人々は痛みを取るために私達のところへ来るのは確かなのですが、それだけではなく、自分の問題やその意味を理解し、対処法を知りたいと思っているのです。 Louis Giffordは、多くの人の間でかなり普遍的な事柄を強調しました。それは何なのか? いつまで続くのか? それに対して何ができるのか? その他に私が定期的に受ける質問は、“XXXはまだできますか…”というものです。人々はまだ何かをしたいのですが、問題を悪化させたくないと考えています。しかし、しばしば、分別良く対処するための知識を得るよりも、怖くなって活動を減らしてしまいます。 教育かまたは知識の伝達か? 私たちは“教育”という言葉を使いますが、“教育”というと、学校でやんちゃな子供たちを前にした厳しい教師のイメージがあり、私たちが実際に行なっていることをあまり反映していないように思います。 教育とは、その人が問題を理解するのを助け、問題に関する不確実性や危険性を減らし、前進する道筋を提供することなのかもしれません。これは、従来の教訓的な教育モデルよりも、知識の伝達を組み込んだパートナーシップの視点と言えるでしょう。つまり、知識の伝達や意味付けという言葉の方が適切なのかもしれませんね? 私たちは何について‘教育’できるのでしょうか? (たくさんのこと、というのがシンプルな答えです・・・) それは何か? おそらく、人々が最も望んでいるのは、診断ではないでしょうか。診断名が分かれば、効果的な治療ができる、ということですね? そうかもしれません・・・しかし、多くの筋骨格系の問題では、構造的な観点からそれが不可能であることが分かっています。このような条件下で、私たちは、問題に対して前向きで一貫性のある説明が必要なのです。その中には、痛みに関する教育も含まれますが、痛みに関する情報が優先である必要はありません。 "非特異的な筋骨格系の痛みで、痛みの原因が明らかではなく、画像診断でも所見がなく、治療によって痛みが完全に緩和されるとは限らない症例では、特定の診断がなくても、具体的で明確、かつ一貫した情報が回復の助けになる“ Carroll et al 2016 回復にどのぐらいかかるのでしょうか? 腰や膝、肩の痛みなど、診断がはっきりしない場合、予後とそれに影響する要因を知ることが、とても役に立ちます。現実的な予測を設定することも重要です。期待値が高すぎると、それが達成されなかったときに失望することになりますし、低すぎると、それを取り組むモチベーションが低下し、成果が限定的になってしまいます。 それに関して何ができるのでしょうか? 健康やライフスタイル、エクササイズ、活動、自己管理など、私たちがお手伝いできることはたくさんあります。私が思うに、管理計画を効果的に作成するための手助けが断然不足しています。ここでもまた、これを治療と見なしてもらえるのかという疑問がありますね? 相手が知りたいことは何なのか? 実際に効果的な知識の伝達のためには、相手が何を知りたがっているのか、時間をかけて探ってみることが重要かもしれません。ただ情報を流すだけでは、重要な疑問が解決されないままになってしまうかもしれません。私たちが考えもしなかったこと、あるいは重要でないと思っていることで、他の人が抱いている疑問は非常に多くあります。もし、その人にとって重要なことであれば、私たちにとっても重要であるはずです! "あなたの問題で一番心配なことは何ですか?" "私に話しておきたい大きな悩みはありますか?" "この件で一番恐れていることは何ですか?" "私が今日お答えできる最も重要な質問は何でしょう?" 状況 私の友人であるJoletta Beltonが言うように、“生物学的、経歴的な意味”を持たせる必要があるのです。これが痛みの教育で大きく欠如していたことだったと私は思うのです。自動的にその人の話に溶け込めるわけではありません。パブで見知らぬ人が自分の人生について話しているときに、自分とは関係ない話をされているようなものです。自分のことばかり話す友人もそのひとつ例で、あなたはその場から逃げ出したくなるでしょう。 ですから、あなたの知識の伝達が、実際にその人とその人のストーリーに関連する形で行われるようにしてください。 失敗 私たちが役に立つと期待するものの中に成功しないものがあるのは、このためかもしれませんね? 例えば、何をすべきか、なぜそれをするのか、それがどのように役立つのかという知識がなければ、そのエクササイズは、その人とその人が抱える問題には関係がなくなってしまいますね? 私の失敗の多くは(プロとしての)、相手と治療哲学の点で一致しなかったことが原因だったと思います。私のビジョンと相手のビジョンが一致しないのは、私が、何を、なぜ、どのように、を‘教育’することができなかった、または失敗していたからかもしれません。 まとめ 教育 は治療です。 実際はどのような意味があるのか? たいていの人は常にセラピストからの情報を求めています。 教師のスタイルではなく、人中心で考えましょう。 何であるか?回復にどのぐらいの期間かかるのか?何ができるのか? 相手が知りたいことを見つけましょう。 状況に応じた情報を応用しましょう。
レジリエンス:それは何か、そしてなぜ回復にとって重要なのか? パート1/2
レジリエンスとはセラピストによってより多く使用されるようなった言葉であり、流行用語かもしれないと示唆する人もいるので、この複雑な題材について私の考えを述べていきたいと思います。私は長らくこのことをブログに書きたいと思っており、そこで私が苦労したのはその記事を気軽なものに留め、学術的にしすぎず、そして何よりも長すぎないようにしようとしたことです。私は、集めたレジリエンスについての研究と個人的な経験のバランスを取ろうとしてみました。 本題に行く前に、このブログで私が主張したい3つの主な論点があります。 まず、レジリエンスとは男らしく(または女らしく)あることではなく、また、単に頑張り続けることではありません。それは人生においてポジティブな影響を与える特定の行動、精神面や身体面の重要性を認識する柔軟で順応性のある状態なのです。 二つ目に、レジリエンスとはレジリエンスであるとないという2つのみからなる状態ではありません。それは内的および外的な要因のバランスによって私たちが行き来する連続体なのです。 三つ目に、レジリエンスとは人によって見え方や感じ方が違います。あなたがレジリエンスとみなすものは、あなたが関わっている人と同じではないかもしれません。 レジリエンスとは何か? レジリエンスはSturgeonによってここで次のように定義されています。 「著しい困難や難題にもかかわらずポジティブな身体および感情的な機能を維持すること」 したがって、レジリエンスとは身体面および心理面の両方におけることなのです。しかし、この二つを切り離さないことが重要です(痛みと同様に!)。身体的なことにおいて多くの場合でレジリエンスを表しますが、そのためには強力な心理的な構成要素が必要であり、多くの心理的な利益をももたらすのです。 これも良い記事です。 Karolyはここでレジリエンスを次の様に定義しています。 「ストレスの多い環境や内的な苦悩にさらされながらも効果的に機能する」 両方の定義は「機能」および「痛みにも関わらず」という言葉を用いています。 これは、レジリエンスを様々な人において全く異なってみえる、非常に個体差のあるものとします。私たちに対してレジリエンスを表すものが他の人に対しても同じだと推測するという間違いを犯してはいけません。 痛みは多くの人にとって間違いなくストレスの多い状況であり、そしてそれが私たちの機能を妨げる時に実に問題となります。しかし、痛みというストレス要因に注目することはこの問題の一部かもしれません。本質的に、レジリエンスとは痛みの問題ではなく機能の問題としてとらえられるべきです。痛みという、多くの人(患者とセラピスト)が注目しえるものではなく、機能の認識と関連が重要な焦点とならなくてはならない(私の見解では)ことから、これは重要な区分けなのです。 Sturgeonはこの様に述べています: 「慢性痛の様な慢性的なストレス要因をコントロールしようとすることは、多くの場合で非生産的であり、ストレス要因のネガティブな効果を深刻化させることもあるでしょう」 持続可能性 GoubertとTrompetterはここで持続可能性のコンセプトを紹介しています;これは次の様に定義されています: 「逆境の中でも人生のなかで長期的なポジティブな結果に向かって行動する能力」 持続可能性は、痛みそのものよりも痛みを持つ人を対象にします。機能の回復よりも先に痛みが引くことに注目することもあるかもしれませんが、私たちはこれをレジリエンスを介して機能することを最初のステップとして逆にとらえることができるでしょう。 リスク要因よりもポジティブな特性に目を向けるために、持続可能性のコンセプトは重要です。これは、病気よりも健康に焦点を当てるAntonovskyの健康生成論のアプローチ(このリンクより)に少し似ています。 レジリエンスをまとめると、それは痛みや痛みに耐えることよりも、より人と機能に関したことです(私の見解です)。どのような痛みやケガに取り組むこともレジリエンスのいくつかの要素を必要とします。最も起こりやすい痛々しい問題の一つである急性的な腰痛は、腰痛の治療の最初の選択が、活動的であり続け、通常の活動に取り組みましょうというアドバイスを伴う、レジリエンスの必要性を示すいい例となるでしょう(このリンクより)。 もしかしたら、最初のレジリエンスは、より頑固な痛みの状態への移行を仲介するのでしょうか? 適応性と柔軟性 レジリエンスとはレンガの壁のようにとらえられるべきではありません。レジリエンスのある人とは、ただ単にどんなストレス要因にも影響されない不感な岩のような人ではありません。それはタフネスのことではなく、柔軟に適応できる状態のことなのです。 それは全く逆かもしれません。レジリエンスのある人たちは助けを求めようとするのに対して、強く寡黙なタイプは外見ほどレジリエンスがなく、助けを求めることで弱くまたは傷つきやすく見えることができないかもしれません。レジリエンスとは、圧力弁を開けて過剰なものを解放し、ストレスを減らす、またはストレスの多い状況でバランスをもたらすものを見極めることでストレスを減少させる能力のことかもしれません 痛みの軽減vsレジリエンス 長い間、セラピーは痛みを軽減することに駆動され、そしてこれが人々がケアを求める理由となっていることに疑いの余地がない一方で、 人々は痛みが彼らの生活や機能を妨げているという理由でもケアを求めており、もしかしたらこの理由のほうが大きいのかもしれません。 このFerraraによる研究では、痛みの強度よりも身体的な障害がケアを求めるより大きな理由であることを発見しました(このリンクより)。 レジリエンスを理解するためには、私たちの患者の機能と、彼らが何をレジリエンスを表すための主なマーカーとしているかを理解することを理解しなければならないのかもしれません。一般的にVAS(視覚的アナログスケール)のスケールと筋力といった身体的な数値が医療の成功を計測するために用いられてきました。しかし、これらの数値は、重要な活動やその人にとってレジリエンスが意味するであろうことをとらえているでしょうか?おそらくそうではないでしょう。この研究は、医療的に計ることができるものに対する人々の実際の目標というこのような題目について注目しています(このリンクより)。 そこで人々がレジリエントであるように手助けをするための良い出発点は、彼らがレジリエンスをどのようにとらえて、効果的に機能することをどのように定義し、そしてどのように彼らの現在の状態と望む状態の溝を埋めるかということを見つけ出すことでしょう。
エクササイズ処方の神話
始める前から問題への答えを持ち合わせていることはいいものです。考えなければならないような厄介で不確実なものを拭い去ってくれるという点で、エクササイズ処方という考えが、非常に魅力的である訳です。 しかし、患者の2回目の来院時に多くのセラピストが患者に尋ねる最初の質問のひとつは、“これらのエクササイズはうまくいきましたか?”ということだと思います。そして、私たちは答えが欲しい一方で、心の底では、物事が必ずしも私たちが望むようにうまくいくとは限らないと経験から分かっているのです。 では、私たちはなぜそれを処方的と考えるのでしょうか。あなたが対応しようとしているのは、症状なのか、評価基準なのか、または異なるニーズと機能を持つ実際の人間なのでしょうか? 私にとってリハビリとは、最初に設定された一つの処方的な手段ではなく、むしろ徐々に改善されていくような適応的な過程です。選択した成果に対する反応を測定しながら、繰り返し行う過程で加減したり作り変えたりしていくものです。強度、頻度、種類すべては、その人によって変化させ、彼らのニーズや要望に応じていつでも調整することができます。 私の個人的な意見として、それを心地よく感じられることは、積極的な運動ベースの介入に取り組むためのカギになると思います。 評価というものも、改善するためのひとつのプロセスです;新しい情報が明らかになったり、仮説が期待どおりに展開しなかったりした場合、問題となっているものは何かについての考えが変わる可能性があります。とにかく、私たちがしているほとんどのことは、とにかく情報に基づいた試行錯誤なわけですから、とうとう言ってしまいました! 初回の介入とそのパラメータは、単なる始まりに過ぎず、次に何が起こるかを確認するための試行であり、情報に基づいた推測でさえありますが、このことは実際、あまり話題になっていないようです。処方は、私達が認めたがるよりも、より提案に近いのでしょう。(大変面白いトレバー・ノアが、南アフリカでは信号機を“提案”であると解説するのに、いつも笑ってしまいます)。 身体的適応のためのエクササイズでさえ、処方的ではなくなってきています。身体的な適応は、非常に幅のあるレップ数と負荷で得られる可能性があることが分かってきています。努力と強度が身体的適応のカギであるように思われます。多くの場合、リハビリ研究では決して測定されないパラメータです! 学習過程 セラピストもその患者も、このことを学習プロセスとして見るべきです。これは、失敗でも、内省的でも、何もわからないことの現れでもありません。私たちが事前に答えを持ち合わせているという考えは、しばしば有害になることもあります。そのことによって、セラピストが自分の能力に自信を失い、リハビリの現実とは異なる期待を生み出す可能性があるからです。私たちは多くの場合、痛みと機能回復の間でどちらかを達成するためにどちらかを犠牲にしながら、試行する必要があります。 データ 研究データは、少し切れ味の悪いツールとして使用されることもあります。もちろん臨床経験も同じです。それぞれの患者特有の症状や治療および治療の効果はすべて、論文に書かれていることと一致すると想定してしまう可能性があります。しかし、データの報告の詳細を見ると、すでに設定されている変数の推定値があり、実際の患者にどのように効果があるかは、やはり適用前ではなく、適用後にしか知ることができません。 私たちの患者と彼らが紹介する症例は、研究では必ずしも正確に反映されていない可能性があります。どの論文も調査対象が人口全体でなく、ごく一部を対象としているため、信頼区間というものが設けられているのです。データを患者とマッチングさせるのが、臨床における課題です。 「研究の視野を広げる」は、ロジャー・ケリーの素晴らしい論文です。 “酔っ払いが灯かりを求めるためでなく、体を支えるために街灯にしがみつくように、統計学を使う人がいる” A. E. Housman また、現代の生物心理社会的な理解では、私たちが直面する多くの問題に対して、文字通り処方することなんてできないということを認識する必要があります。前にも言った通り、私が取り組んでいる主要なことのひとつは、身体を使って再び物事に従事する自信です。そのための処方は何でしたか? また、論文では、どのようなことをしたかについて明確な概要が示されていないことがよくあります。多くの場合、彼らは、別の論文や決して一覧されることもない付録を見るようにと指図します。それを実際に見てみると、強度や休憩時間などの重要な変数が欠落していることがよくあります。そのため“エビデンスに基づく” リハビリは、多くの場合、みなさんが考えているものとはまったく異な流ことが多いのです。 研究におけるプロセスが必ずしも臨床のプロセスを反映しているとは限らないと言ってしまうと、意見が分かれますかね? これはひとつのプロセスです 残念ながら、臨床的推論はカッコよくありません。治療が効くか効かないかを明白に示す方がかっこいいですし、その方が共感を呼びます。臨床での取り組みのニュアンスは、しばしばなおざりにされ、偏見と二極化に支配されます。臨床的に難しいのは、研究に基づく情報を、個人の症状や経験/信念などと調和させることです。 ただし、これは1回限りの取引ではありません。推論と改善のプロセスは、ケア期間を通して継続する必要があります。単に診断して初期評価で処方、ということを繰り返し行うだけではありません。 ツイッターでの会話でとても素晴らしいコメントがあったので紹介します: “エビデンスに基づく臨床とは、利用可能なエビデンスをやみくもに患者に投げつけることを意味するのではなく、来院するすべての患者それぞれに合った最適な戦略を見つけるための繊細な調節をするプロセスです”-Nihar Palan 私の意見として、偉大なセラピストは最高の処方や計画を持っている人ではなく、計画的に進まないときに何をすべきかを知っている人です。対処しなくてはならない状況や人の変化に応じて、適応し調整することができる人です。 他の方法 1. 臨床的推論 研究データ 病歴 検査 診断 適用 2. 反応 成果はなにか? どのくらいの期間がかかったか? 3. 適応 同じことを続けるか、または、変えていくか? 何を変えますか? 結論 処方とは、実は提案です 私たちは反応に基づいて時間をかけて改善していきます 実際、情報に基づいた試行錯誤です 研究は、明らかに結果のバリエーションが反映されます 研究では、処方に関して明確に示されないことがよくあります 適応方法を理解していることがスキルであり、フローチャートに従うことではありません 推論、反応 & 適応は、より優れたモデルです
筋肉の孤立?あなたはそうやって動作を覚えましたか?
今回のブログは昨日子供を公園に連れてった時に思いついた事をまとめました。特に科学的事実に基づいてるというわけではないのですが、個人的に伝えたいことを書いてみました。 私の息子は今16ヶ月を迎えたところですがその成長のスピードには目を見張るものがあります。特に言語と動作・身のこなし方の二つの分野での成長は著しく、息子の成長過程をみるにつれ、私たちがどうやって人の動作やそれに関する問題を矯正し、より効率よく動く事を教えることが出来るのか、について考えさせられました。 よく私たちは、動作の機能不全の原因は“特定の筋肉が電気信号を正しいタイミング・強度で発していない事”(筋繊維動員)や、違う筋肉が本来すべき筋肉に代わりその働きをしていることに起因すると聞きます。そこで正しい“筋繊維の動員”という名目の元、人を横たわらせ、様々な部位を突っついたり、今までにしたこともないような動きをするように命じることで筋肉の動きを誘発し、問題を矯正しようとします。この”筋繊維動員パターン”という用語は私のブログに関してグーグルでもっとも検索されている用語のひとつですが、そこである疑問が浮かびました: 人は最初からこういう特別な意識をもって動作を覚えたのだろうか? きっと、違うのだと思います。前述されたような筋動員テストは特定や細かな動きを求めていますが、息子の動作や言語に関する成長において、私が一つ気づいたのは、それらは特定されず大雑把に習得されていくという事。彼はまず大まかな動きや声を出すことを覚え、それらを土台に複雑な言葉や動作を習得していきます。その基本的な動作などを体に染み込ませ、生涯をかけて磨きをかけ、改良していくのだと思います。 身体の動きの中で特定の筋肉のみを孤立して動かすことはできませんが、特定な動きを孤立することは出来ます-例えば股関節の外転のように、関節周辺の筋肉が調和して働くことで、特定の関節に孤立した動きを起こすことはできます。しかし、私の息子が、横向きに地面に寝そべりながら脚を外転したり、ブリッジの体勢で臀部の筋肉を狙って緊張させたり、ハーフスクワットのように屈みながら横歩きするのは見たことがありません。彼が特別なだけなのかもしれませんが、私は今まで他の赤ちゃんがこういう特定な動きを狙って行っているところを見たことはありません。(その分野での私の見識は限られてはいますが) では、元々細かな意識で動作を学習していないのに、なぜ私たちはそのような方法で動作を学びなおそうと試みるのでしょうか? 今、私の息子は世界と触れ合いながら様々な仕草や実用的な動作(そのほとんどは現時点ではあまり使えないとは思いますけど!)を覚え、これからの人生の糧となっていくであろう膨大な貯えを養っています。寝返り、這うこと、歩くことを学び、そして走ることを学ぶようになります。しゃがみ、立ち上がり、身体を起こし、よじ登り、これら全てを深く考えることなく、様々な方法で学びます。そして私達からしてみれば簡単な動作である、物を拾い、落とす仕草を繰り返して、彼の運動制御系統が発達しているのがわかります。やがて、これらの作業の難易度は増し、早くなり、無意識な状態で行われるようになるのでしょう。 これが、完璧で、深く考えられた、機能的とはいえない孤立した筋肉の動員を通して動きの矯正をしようとする私達の試みに、どのように関連づけられるのでしょうか?関連性はあまりないですよね。息子は遊びながら、探求心をもって様々なことを学ぼうとしています。私たちの脳は新しい動きを好みます-特にその動作の種類、また引き出しが日々の生活やその繰り返しの中で失われてく日常生活の中では。 これら全ては息子の脳に神経可塑性の変化を生み出し、生涯にわたって神経レベルでの発達を続けていきます。ニューロンは共に発火し、配線されます。動きのパターンの中で同時に働くニューロン数が少なければ、共に発火、配線するニューロン数も少なくなります。筋肉を孤立させようとする、というよりも、動きを孤立させようとすることで、私達は運動パターンの連結も、なめらかで可変的な運動学習の環境をも損なうことになってしまうのです。 私たちが時に問題に直面するのは、細かい動作の欠落が原因ではなく、もっと単純で根本的な、幼少期に覚えたはずの動きをどこかで失ってしまうからではないでしょうか。 私達の動きの能力が、日々の暮らしの中で、徐々に衰退していくこともあります。座位中心、不自然で型にはまったエクササイズ、特定の筋肉のみを活性化しようとするエクササイズ等のために。私達は、子供の頃のように遊び心を持って、体の動き・動かし方を探求することで、動きのポテンシャルを模索しようとすることをしなくなっています。 神経可塑性の変化が常にポジティブなものであるとは限りません。 神経学の表現で“使うか失うか”というものがありますが、これは使われていない神経接続は時と共に失われていくことを表してしています。これは、私たちが、幼少時に遊び、模索しながら培ったものに対しても言えることでしょう。 私たちは失敗を通して学びます。失敗は、私達が学習の過程で通り過ぎる、生物学的に必要なものです。最初から完璧な動きができるのではなく、常に新しい動作や流れを覚えたりします。私たちは、完璧なフォームでエクササイズや動きが実施できないのであれば、実行する価値がない、と感じてしまいがちです。どんなスポーツを習うにも、最初のうちは、上手くできるわけではなく、我慢して努力して上達しようとします。私達は、最初から、完璧な運動パターンや筋肉を活性化できるわけではなく、出来の良くない状態からスタートし、関連性のある動きを学習しながら徐々に上達をしていくのです。 私達は賢くなりすぎて、それが逆に私達の首を絞めているのでしょうか?私たちの人体の解剖学に関する知識は膨大になり、人体解剖を行い、身体中の筋肉の付着部や働きに関する詳細を素晴らしいイラストレーションで伝える分厚い書籍が出版されています。それ自体は素晴らしい業績ではありますが、臨床や、エビデンスを基本とした研究などによって実証された手法によって、何をすれば良いのかを判断する指標としている風潮もあります。これでは、どこかポイントがズレてしまってはいないでしょうか? 私たちが、どのようにして運動コントロールを学習してきたのかを鑑みることをしなければ、進化はそこで止まってしまうでしょう。なぜなら自然は、あらゆる変数を計算しつくし、何億年もの時間をかけ、もっとも実用的で、効率的な人間の身体を作りあげてきたからです。 私達は、三次元の環境に存在する私達人間のスピリットや、多面的な動きの能力を大切にする替わりに、ある意味、本能に逆らうように、調査に調査を重ね、身体を複雑化しているようにみえます。 私達に、一番問題が少なく、身体が自由に、痛みなど無く動いたように思えた時代を振り返ってみましょう。赤ちゃんのようにスクワットをすべきだとか言っているわけではないのです。ただ、私達が動きの基本を形成した運動学習の時期を振り返って、どのように行ってきたのかを伝えているだけなのです。 あまり科学的な内容ではないことをお詫びします。ただ考えていたことをシェアしたかったので。
痛みと予測 パート4/4
生体力学の関わり 私達が自問自答しなければならない疑問は、構造的生体力学モデルの関わりについてです。構造的‘異常’は、運動制御の‘順’モデルを考慮に入れる際、私達が見込む予測可能な方法で動作を修正することはできないかもしれません。私達が、痛みを動作と体組織への実際の影響として考えるのではなく、痛みを予測や運動指令と関連していると考えるならば、それは、もしかしたら私達に、生体力学的/デカルト的フィードバックの視点を考え直すことを余儀なくさせるに違いありません。疑問は、“動作は痛みを引き起こしているのか、それとも痛みが動作を修正しているのか”ということです。体組織の潜在的知覚の変化は、施術者によって異常、もしくは損害を与えると見なされる特定の動作よりもむしろ重要なのかもしれません。 表現がより良ければ、予測もよりより良いのでしょうか? 私達の神経構造と神経構造の組織は、私達が記憶-予測モデルを考察に含める際に、いかに未来の事象を予測するかに関して重要だと思われます。 バトラー、モーズリー、フロアー、ラマチャンドランやその他の研究者によって、私達の体部位再現は、慢性痛の状態に関連しているとされています。 モーズリーとフロアーは、“慢性痛の治療における皮質表現へのターゲティング:総括”(2012年)の中で、下記のように説明しています: 科学的根拠の大部分は、慢性痛は、身体に関連する皮質表現領域の障害に関連していることを明らかにしている。そして、この障害が慢性痛の一因となっている、もしくは保持しているという科学的根拠がある。 私達は、未来レベルの体組織への脅威や危険を予測するために、これらの表現を利用しているかもしれません。そして、重要な変化が、慢性痛を患っている人たちの疼痛部位において、確認されています。痛みが表現を修正しているのでしょうか、それとも修正された表現が痛みの一因となっているのでしょうか?これは、答えにくい疑問ですが、両方のシナリオについて考察していかなければなりません。 皮質表現へのターゲティングは、モーズリーとフロアーによって提案され、NOIグループの段階的運動イメージプログラムによって実施されています。www.gradedmotorimagery.com フォーラとその他は、“筋骨格系疼痛障害のためのリハビリテーションの取り組みにおける運動学習と神経可塑性の役割”(2010年)の中で、下記のように述べています: 新しい運動技能の獲得において、皮質性神経可塑的変化は、しばしば運動能力の向上のような、有利と考えられる性質を伴う 彼らは、下記のように書き加えています: 皮質性神経可塑的変化の及ぶ範囲を最大化しようとする、リハビリテーションの取り組みは、リハビリテーションの成功のための最大の可能性を提供する立場にある。 モーズリーとフロアーは、下記のことも書き加えています: 感覚・運動戦略を利用している感覚・認知表現をターゲットにする治療は、明らかな機能的かつ対症的効果を示している。 悪循環を断ち切る 私達の見解では、持続性の疼痛反応を変える手助けをするのは、予測を断ち切ることかもしれません。そのための特定の‘方法’は、このブログの焦点ではありませんが。これには、痛みに関連した、潜在的に染み込んでいる出力を断ち切るために、行動、感情、運動戦略に気づくことを含んでいるかもしれません。 時として、いくつかのケースに於いては、ただ単に、動く前に意識的にリラックスさせることのように単純なことかもしれません。事例的成功は、この方法の利用を介して得られています。運動作用への単純な連続的な変化を通して、痛みを修正することが可能だということは、患者にある程度の内部制御部位を還元できるかもしれませんし、脅威の予測の修正と同様に、患者の情動状態に影響を及ぼすかもしれません。 疼痛教育と生物-心理-社会モデルは、予測の変化、もしくは痛みと脅威の知覚にも関連があるのかもしれません。患者が何を経験しているかと患者の身体への実際の損傷との間の関係を再評価を助けます。 状況に応じたわずかな変化は、結び付いている痛みの構成要素を持つ特定の運動指令に影響を与えるかもしれません。これは、身体の姿勢、位置もしくは情動状態かもしれません。 痛い動作にできるだけ近い痛くない動作が、私達に、痛みの関連性を増強することなく、動作の確かさを築き、維持することを可能にしているのかもしれません。四肢位置のわずかな変化は、疼痛反応を修正し、動作と痛みに関連した防御機構を縮小するかもしれません。痛みの出力の程度に応じて、罹患部位の痛くない/脅威でない動作へ後戻りさせる必要があるかもしれません。 結論 痛みを体組織の状態、病理、痛覚、生体力学から分離し始めることが重要です。痛みは、身体からのいかなるインプット無しに発生する、脳の出力です。しかし、これは、これらの構成要素のどれもが痛みを引き起こすことができないということを意味しているのではありませんが、現在、多くの人達が信じているように、痛みは、確実に、それらの構成要素だけにとどまりません。 脳の機能構築を変化させるかもしれない学習体験に基づく痛みの予測は、運動時痛のフィードフォワード・モデルを作り出すかもしれません。これもまた、私達の個々の‘神経基質’に作用し、痛みの体験を増幅するストレスや疾病のような、多くの要因によって調整されています。 私達の皮質表現へのターゲティングは、動作制限、もしくは痛みの出力の増大を介して、体組織への保護する知覚された脅威を含まない予測において、(できれば、より良く)異なる変化と長く持続する変化を作ることを可能にしているのかもしれません。これは、視覚系とイメージ、運動技能、与えられた痛みの状況のわずかな修正を通して、行われるかもしれません。
痛みと予測 パート3/4
記憶-予測モデル 脳がどのように機能するかについての一つの理論は、記憶-予測モデルを介しています。 脳が多くの変数に直面し、それらすべてを処理しきれない時、脳は、以前の事象や学習体験に基づいた予測を使用します。ベイズ確率理論は、どのようにこのモデルが機能しえるかに対しての洞察を与えるかもしれません。 仮説の可能性を評価するために、ベイズ蓋然論者達は、新たな関連データを踏まえて更新された、いくつかの事前確率を明確化します。Bayesian probablility. Wikipedia. この一例は、あなたがラジオで知っている歌を聴き、それに合わせて歌っているということかもしれません。あなたは、次に来る歌詞を予測するために、その歌に関する以前の記憶を利用します。私達はクイズ番組の中で、ある単語に欠けている文字を入れる際や、良く知られている熟語を完成させるために単語を入れる際にも、同じことを目にします。このように、記憶-予測モデルを説明するために利用可能な例は、数限りないのです。 また、私達はボタンを押すことに関連した報酬、もしくは制裁に反応するネズミにおいて、基準面におけるこの神経処理を目にします。 この方法で、過去の事象と体組織、もしくは体組織の状態への脅威や危険の現在の予測との間に繋がりが見え始めてきます。特に、痛みのような記憶しやすい事象に関して。 予測は、過去に何が起きているかによって影響されます。特定の行動や出力の蓄積と呼び出しにおいての直接水準とインプットの処理とそれに続く出力全体の両方が、遺伝子要因と習得した要因によって形成される、私達のひとつひとつの‘神経基質’を通して、指令を出します。 私達が実際の状態を問わず、体組織の状態を、損傷した、もしくは運動作用によってさらなる損傷になりそうである未来の体組織の状態の予測として知覚するとすれば、、痛みの出力は、運動作用や伴う痛みを防ぐために利用されたり、運動計画の段階で動作を制限、または修正する効率的な方法として利用されたりするのかもしれません。 ここでの問題は、(存在している、もしくは関連性のある)痛みのある動作や病理ではないのかもしれません。それは、脳による知覚と、それに続くさらなる損傷への予測です。学習した反応を変更することは、より困難なことです。実際、ラマチャンドランは、これを‘学習された痛み’と呼んでいます。痛みは習慣であり、私達皆が知っているように、習慣を変えることは困難でありえるのです。 痛みの‘記憶’ メルザックは、彼の論文 “幻肢の痛みの‘記憶’:総括と臨床観察”の中で、‘身体の記憶’について考察しています。四肢は、もはや存在しなくとも、切断前の痛みは、‘幻肢’において持続します。 メルザックは、下記のように述べています。 その結果によると、十分な強度と持続期間の体性感覚入力は、中枢神経構造内に持続的変化を生じさせる 損傷は、下記のようにの変化に富んでいて、包括的です: 皮膚病変、深部組織損傷、骨関節痛、痛みを伴う切断前の姿勢 痛みは、末梢部には存在しません、存在しえないのです。その代わりに、四肢に関連している特定の表象において、神経可塑的に脳を変化させます。ここでの疑問は、完全な求心路遮断ほど極端ではない例の場合でも、これは発生するのかということです。 ディヴィッド・バトラーは、“敏感な神経系”(NOIグループ出版、2000年)の中で次のように述べています: 過度の使用、不使用、軽傷、関連した認知もまた、表現を修正させる。切断は、ただ単に劇的な一例である。 ここで私達は、未来の疼痛経験に影響を与えている過去の痛みの体験についてみていきます。完全な求心路遮断ほど極端ではない例において、私達は神経可塑的に脳を再編成している痛みの‘記憶’を規則的に目撃するのでしょうか?その結果、未来の知覚や、それに続く体組織への脅威の予測の修正を目撃するのでしょうか?脳の出力は、動作の小さな修正から、衰弱性の慢性痛にまで至るかもしれません。 “順”モデル 予測モデルもまた、運動制御理論において、運動制御の順モデルという仮説として取り上げられています。 フライシャーは、彼の論文、“小脳、大脳基底核、海馬における予測の神経相関”の中で、‘順モデル’を考察しています。 順モデルは、神経系に身体の状態が、近い未来にどのようになっているかの予測を提供する。 彼は、下記のように書き加えています: 最適な運動制御理論は、どのような運動指令の効果が、現在の状態や運動指令に与えられているのかという順計算の存在を必要としている。 そして、 その代わりに、順モデルは、フィードバック制御のみの使用よりも速い動作の生成を可能にさせる。 私達の体部位再現の表現が蓄積され、恒常的な情報の流れが起こる小脳と大脳皮質のつながりを理解することが重要です。私達は、要求された課題を達成するために、運動野からの意図的動作と、運動指令を修正するために情報を使用している末梢からの報告された動作を比較しました。 ここで再び、フィードバックではなく、フィードフォワード・モデルの関わりをみます。何が起こるかを予測できる必要性は、過去の体験のみに基づくことが可能です。痛みと運動調節において、生体力学の力に基づくモデル、もしくは痛みのデカルト的見解のように、フィードバック・モデルが支配しています。
痛みと予測 パート2/4
出力としての痛み 痛みと体組織の状態の間の隙間を広げ、そして、脳の出力としての痛みの見解をより深く評価するために、私達は、身体からのいかなるインプットをも伴わない痛みを考察しなければなりません。絶好の例は、‘幻肢’痛です。 ‘幻肢’とは、切断手術を受けた患者が、すでに切断されている四肢にまだ痛みを感じるものです。これは珍しい体験ではありません。ニコラセンとジェンソン(2001年)は、最近の複数の研究が幻肢痛の出現は60-80%に上ると報告したと、“幻肢痛”の中で発表しています。 メルザックとカツは、彼らの論文“痛み”(2013年)において、幻肢について下記のように述べています: 痛みを含む、私達が通常身体から感じる経験としてのあらゆる性質は、身体からのインプットが無い場合にも、また感じられる;このことから、私達は、経験のパターンの起源は、脳内の神経回路網にあると結論を出すかもしれない;刺激は、パターンを引き起こすかもしれないが、刺激を作り出すことはない。 マカビーとその他(2006年)は、“健康な被験者における感覚運動不調和のシミュレーション”において、下記を考察しています: 認識できる末梢の因果的病理の存在なく生じる、もしくは外傷のサイズに不相応と思われる状態 例えば、 反復運動損傷、Ⅰ型複合性局所疼痛症候群(CRPS)線維筋痛症、限局性手部筋失調症、幻肢痛 彼らは、運動感覚中枢神経処理を介して、健康な被験者の痛みを誘発しようとし、下記のことを発見しました: 27人の被験者(66%)は、末梢性の侵害のインプットが無いにもかかわらず、プロトコル中のいくつかの段階で、少なくとも1回の異常な感覚症状を報告しました。. 上記の2例は、 痛みは、損傷組織、病状、もしくは構造的異常にのみ起因するという、現在の覇権に疑問を投げかけます。事実、これらの例において、私達はいかなる侵害刺激無しに、時としていかなる脳への刺激、もしくはインプット無しに痛みを経験することを見ているのです。 メルザックとカツは、彼らの論文‘痛み’の中で、下記のように書き加えています: 要するに、もし私達が、身体は感覚メッセージを、受動的に受信する脳に送信する、と仮定するのであれば、幻肢はミステリーとなりえます。私達が、脳が身体にとっての体験を作り出すことを認識した時点で、幻肢は包括的なものになります。感覚入力は、ただ単に経験を調整しているだけにすぎません。感覚入力が、直接的に経験を引き起こすことは無いのです。 予測としての痛み ついに私達は、この記事の真のテーマにたどり着きました。末梢からのインプットを必要としない脳の‘予測’としての痛みの紹介です。これは、なぜ組織治癒後、もしくは病理が存在しない場合ても痛みが長期にわたって持続するのか、そして、なぜある人達は、MRIの結果に、痛みに関連するものが発見されているにもかかわらず、少しの痛みしか、もしくはまったく痛みを経験しないのかという理由であるのかもしれません。 ノーマン・ドイジの著書“脳は奇跡を起こす”において、彼は、神経可塑性と幻肢痛の理解に尽力したインド人神経科学者ラマチャンドランと対談をしています。 ラマチャンドランは、慢性痛患者と彼の信条“運動指令は、痛みの感覚系と繋がっている”、あるいは、痛みの関連性は、ある特定の動作のための運動プログラム(神経信号/タグ)とつながっているかもしれないということを論じています。これは、受傷後に起こる可能性があり、損傷組織を保護するために、運動指令は変化します。痛み、もしくは損傷に対しての運動変化は、ホッジスの論文‘疼痛化での異なる動作’(2010年)において論じられています。 私達が、防御するために、筋肉を動かさないようにして損傷の悪化を防ごうとする際に、意識的に動かないことを自分自身に思い出させるのであれば、私達は、疲弊し、足を取られ、自分自身を傷つけ、痛みを引き起こしてしまうでしょう。(ラマチャンドラン) ~脳は奇跡を起こす”ノーマン・ドイジ ペンギン、2007年、p193. これは、脳機能構築内で、神経可塑的変化を引き起こし、“防御の病的形成”を作り出します。 彼はさらに続けて下記のように述べます: ラマチャンドランは以下のように考えました:運動中枢が、動くための命令の発令と動作の遂行をする間に、脳は、動作が起こる前に痛みを引き起こすことによって、先行して間違った動作を回避する(ラマチャンドラン) ~脳は奇跡を起こす”ノーマン・ドイジ ペンギン、2007年、p193. 出力としての痛みを理解することが、この観点には不可欠です。動作の‘防御’は、著者の見解として、運動出力にも痛みの出力にもなり得ます。身体は、可動域もしくは、動作の方向と疼痛反応を通して、動作を制限する選択をすることができます。 組織が回復区をすると、これが問題になります。 ラマチャンドランは、これらの慢性痛の患者において、痛みの指令は、痛みの感覚系と繋がっているため、四肢は治癒しているにもかかわらず、脳が腕を動かすために運動指令を送信する際に、痛みを引き起こすと信じるようになった。 脳は、いまだに身体の部位を問題としてとらえています。さらにもう一歩踏み込めば、影響される身体部位動かすことを考えること、もしくはそう論じることでも、私達は痛みを感じ始めたり、不快感を抱き始めるかもしれません。それは、脳の複数の領域における、痛みのある部位に関連を持つ多くの神経パターンへの痛みの配線によって決まるでしょう。 “現代的な痛みの科学における痛みの再概念化”でのロリマー・モーズリーのキーポイントの一つは、下記のとおりです: IV. その痛みは、体組織が危機に瀕しているという潜在的知覚の意識的関連要因として概念化される。 ここでは、私達は、体組織の状態の知覚、もしくは危機にさらされてる体組織の知覚と比較して、重要ではない体組織の状態に関する合意があります。 この知覚は、その体組織に起きた損傷や痛みのような既往、もしくは体組織を危険にさらしていると脳が感じるかもしれない動作に基づいている可能性があります。これは、以前の動作/痛みの体験、もしくは脳からの痛みの出力に影響を及ぼす、未来の体験の予測の可能性の世界を開拓します。病理の原因、もしくは関連としての痛みを体験した部位の組織損傷は、痛みの体験からさらにかけ離れていきます。時間が経つにつれ、いなかる相互関係もより減少していきます(モーズリー2007年)。しかし、体験した痛みは、体験している人にとっては、いまだにとても現実的なものであることを、私達は覚えておかなければなりません。
痛みと予測 パート1/4
この記事は独立したものであり、すでにこのブログにおいて紹介されている“脳・動作・痛み”シリーズの第3部でもあります。 このブログは、下記のおおざっぱな“脳のモデル”に従っています: パターン 知覚 予測 このモデルにおいて、脳は結果を予測するために、フィードバックによって引き起こされ、比較された蓄積された神経パターンを使用します。私達が予測をするために必要なのは、蓄積された記憶であり、いかなる特定のフィードバックも必要としていないかもしれませんが。 この記事は、結果および/または動作を作り出すための、脳の予測に焦点を合わせています。私達の見解では、動作と痛みは、このカテゴリーに分類されます。 この記事では、動作よりも痛みに焦点を当てています。痛みは、確実にコーキネティックの専門分野ではありませんが、間違いなく興味のある分野です。 脳の予測が有益なものではない際に、問題は起きるかもしれません。これは、危険、もしくは脅威の予測が、実際の体組織への脅威に比例していないときで、特に以前の外傷の既往や痛み後にありえます。体組織が改善した状態でさえ、損傷の可能性を制限するために、痛みは予測の結果としておこる可能性があります。 これは、決して疼痛経験への包括的な見解ではなく、考察にすぎません。痛みは、責めるべき単一の要因だけでなく、多くの要因によって引き起こされ、調整されています。 痛み 痛みは、非常に扱いにくい題材です。私達は、痛みに関して何をすべきか、そして、一般的に普及している事実が重要な問題を提供しているということよりも、痛み自身に関して、より多くのことを知っています。 しばしば、問題を再概念化することは、一部の正しい知識を持った人達が痛みの理解への道を照らす際、私達のアプローチを変える手助けをしています。彼らは、以前の(現在でも議論されているかもしれない)主要な痛みのプロセスの理解であるデカルト的な見方に新しい視点を与えました。その先駆的な人物のひとりは、ロナルド・メルザックであり、彼の独創性に富んだ“神経基質”モデルです。全文(英語)をみるには*ここ*をクリックしてください。 メルザック&カツ(2013年)による“痛み”からの最新モデル 痛みの現代的な理解のカギは、身体からのインプットではなく、脳からの出力のようです。そして、これが体組織へのダメージと経験した痛みの総量の関係性、もしくは侵害受容器活動と経験した痛みの関係性を分離し始めています。潜在的に痛い、もしくは痛くない刺激の脳内での中央処理が、個人が経験する痛みのレベルのカギになります。後で詳しく説明するように、実際、痛みを作り出すために、私達は身体からのいかなる刺激も全く必要ないかもしれません。 ロリマー・モーズリーは、2007年にフィジカルセラピーレヴューに発表した“近代的な痛みの科学に従った痛みの再概念化”で雄弁に詳しく、下記のように説明しています: 実証研究が、痛みと侵害受容器活動間、もしくは痛みと体組織の状態間でも同一構造の関係性を示さないことは明らかである。むしろ、実証研究は、多くの要因によって調整される変わりやすい関係性を示している。 痛みと病理学 受傷後に、痛みが数か月、数年にわたって持続するという事実も、痛みのレベルは体組織の状態に相関するという現在の見解を混乱させます。これはまた、患者の現在の痛みの状態に関連付ける病理学の継続的な模索にも疑問を投げかけるのです。 ボーデンとその他(1990年)が発表した、“無症状被験者における腰椎の磁気共鳴映像(MRI)検査にみられる異常”では、痛みの訴えの無い人達を検査しています。彼らは、3分の1の被験者が、‘かなりの異常’を示すことを発見しました。これは、60歳以上では57%にものぼります。さらに驚くことに、20~39歳の被験者の35%に、腰椎椎間板の突出、もしくは変性がみられました。 バーンスタイン(2001年)は、“無症状被験者における腰痛を予測するための腰椎の磁気共鳴映像の有用性:7年間の追跡調査” において、無症状被験者の腰痛の予兆となるものとしてMRIを注視しました。 そして、彼らは下記の研究結果を発表しています: 磁気共鳴映像による研究結果は、腰痛の発症や持続期間を予測ではなかった。腰痛の最長期間をもつ被験者達が、1989年の最初の画像において、重大な解剖学的異常を有していたわけではない。 グレーブスとその他(2012年)による最近の研究、‘急性腰痛における早期の画像診断:ワシントン州の労働者における1年間の健康と障害状態’において下記を報告しています: 腰痛を有する労働者において、早期のMRIは良好な健康状態とは関連しておらず、障害の可能性と持続期間に関連がある。 そして、1年後の労働障害給付金を受給する可能性が2倍になっています。 腰椎ヘルニアへの外科的処置は、症例の60%においてのみ、痛みと坐骨神経症状を完全に除去することができます。腰部にサポートをもたらす脊椎固定術では、滅多に症状の改善はみられません(メルザック、全文-Pain 2013)。 モーズリーによって説明されたように、これは痛みと体組織の状態の様々な関係性を強調しています。体組織の状態との早期の相互関係は、良好な結果につながりませんでした。実際、病理学との関連性が、痛みの持続期間を増大させたのでしょうか?さらにこれは、体組織の状態と痛みの予測可能な関連性を拡大し、患者の状況の認識評価もまた、状況の要因となるのです。 私達は、様々な慢性痛の原因として、あるいは予測を試みるために、人間の状態の中に多くの生体力学的、もしくは解剖学的な‘不具合’や‘異常’を見つけ出そうとしてきましたが、これらは質の高い研究によって確実に裏付けられてはおらず、事実として提起された見解がいまだ飛び交っているという、捕らえどころのない状況であることが証明されています。
自己効力感:よく使われる用語ではあるが、十分に理解されているのか?
自己効力感は、最近、特にリハビリへのよりアクティブなアプローチが受け入れられるようになったことで、治療の現場でもかなり一般的に使われている用語です。 そこで、一体それがどのような意味なのか、なぜ重要なのか、そして、どのように高められるのか?などを明確にしなくてはなりません。 実は、私がこのブログを書いている最中に、私のツイッター友達でもあり同僚でもあるジェリー・ダラムが、その質問をしてきたので、この題材にちょうど良いタイミング!と思ったわけです。そしてこれはまた、頻繁に使用する用語に対して、しっくりくる定義がないということも表しています。 まず、それがどのような意味なのか?から取りかかりましょう これは、70年代にバンドゥーラによって作られた用語で、彼はそれを、‘特定の活動に関連したある行動を遂行する能力があるという信念’と説明しました。 また、自己効力感は、‘レジリエンス(立ち直る力)のある自己信念システム’とも説明されました。 私は、これを“私に任せて”や“私にできる”という感覚だと説明したいと思います。 たとえ痛みがあっても、日常生活の活動を実行したり、機能性を維持したりする能力の認識、あるいはするなどは、痛みに関しての自己効力感となり得、また、特定の運動やエクササイズといった運動療法にもなり得ます。 そこで、もし、あなたの親切なセラピストが、腰痛の改善のために散歩に出かけることを提案したとして、あなたはそうしてみようと思うでしょうか? やる気が起こらないかもしれませんね? おそらく体力的にできるのかどうか自信がないかもしれませんね? 忙しくて、そのようなことをする時間が取れないと思うかもしれませんね? 低い自己効力感は、克服できることではなく回避すべき恐怖としてとらえる行動の変化という結果的に厳しい状況に陥ることがあります。 バンドゥーラは、認知的、動機付け的、情動的(感情的)といった、自己効力感に関与する多くの心理的過程を明らかにしました。価値のある目標を持つことや活動をすることも、これらの要因に関連しているようです。自己効力感やレジリエンス(立ち直る力)に関する文献は、この過程の重要な部分である価値のある活動を重視しています。ここをクリック さらに、バンドゥーラは、自己効力感を生み出す4つの源を明示しました。 熟達 活動や動作にどれだけ熟達しているかは、将来の能力への認識に影響を及ぼします。人間は、周囲で起こる不確実なことに対して、過去の経験をもとに推測し見当をつけるものであることが分かり始めています。私たちは、過去に何らかの成功を経験していれば、再び克服できると知覚する傾向にあります。これは、成功のしやすさにも関係します。その成功が容易だった場合、いざ困難に直面したらすぐに辞めてしまうかもしれません。また、それが成功しづらかった場合には、目の前に立ちはだかるどんな困難も乗り越えることに慣れているかもしれません。 このように見てみると、これまでのエクササイズの継続や積極的な取り組みが、将来のエクササイズの継続にとって重要であることが分かります。ここをクリック 経験 私たちを取り巻く環境も、能力に対する認識に影響します。あなたと似た境遇にいる、つまり自分が成し遂げようとしていることと似ていることにチャレンジしている人が周囲にいたならば、このような目標は達成可能であるとあなたは認識するでしょう。これは、私たちが目にするメディアから所属している社会活動や家族までの幅広い環境であるかもしれません。このことは、痛みの社会的側面を強調しており、非常に重要と思われます。 痛みの社会的要因に関する最近の素晴らしい論文があります。ここをクリック 説得 さて、これはプラスにもマイナスにもなり得ます。もちろん、プラスによりもマイナスに影響されやすいものです!しかし、特にこれまでの成功体験を重要な要素として捉えるならば、ある作業を成し遂げる能力があることを口頭や経験で説得されると、その人は、その作業を遂行することができる傾向にあります。 ネガティブな感情 ある活動に抱いている強烈なネガティブ感情やその活動にまつわるマイナスの認識も、その人が持っている自己効力感の程度に影響するでしょう。自信喪失は、たいてい行動にマイナスに働く感情です。 そこで、なぜそれが重要であるのか? これも確認しておかなくてはなりません。 複数の論文において、自己効力感は、さまざまな障害や疼痛の尺度において、よりよくない結果にリンク付けされているように見受けられます。現時点では、これが要因であるとか、自己効力感を高めれば、アウトカムも改善することに繋がるとは単純には言えません。しかし、もし危険を承知で言うなら、特に、治療の一環としてアクティブアプローチをより推奨しているのであれば、やはり因果関係はあると思うのです。 もちろん治療のためのエクササイズは、実施されなければ意味がありません。そして、もし、私たちがその治療を患者に施せなければ、エビデンスに基づく医療はうまくいきません。 2010年、フォスターは、通常の活動を行う能力に対して低い自信や低い自己効力感を持つ腰痛患者において、6ヶ月で障害が悪化すると予測されることを明らかにしました。実際、不安回避や破局的思考、鬱よりも良かったとされています。ここをクリック 2014年、キーディは、痛の管理に関連した行動に着手する能力、痛みに関する自己効力感がないことは、腰痛のためのリハビリテーションの結果に関係していることを示しました。ここをクリック 2018年のチェンによる腰痛に関する5年間のフォローアップでは(ここをクリック)、消極的行動尺度が大きいほど結果が悪くなることも判明しました。消極的な対処方法は、痛みを制御するために、自己効力感にも影響する信念システム(ここをクリック)のような内的要素よりも外的要素に頼ってしまいます。 自己効力感は、エクササイズによる介入の継続に必須であるとされています。これらの研究では、低い自己効力感は、ホームエクササイズプログラムを組んでも継続しない予測因子でした(ここをクリック & ここをクリック)。エクササイズの根本に目を向けてみると、もし本人がそのエクササイズをできる気がしないのであれば、全く無駄な過程になってしまいます。セット数やレップ数に注目するよりもこの領域に時間を費やした方が、エクササイズの継続を劇的に改善でき、結果にもつながるかもしれません。 私はこれを、ドーナッツ本体ではなくその穴に注目する、と言っています。 それを変えるためには何ができるでしょうか? 成功! 最初のステップは、単純に成功体験を作ることかもしれません! これまでにエクササイズが継続できたことや改善できたという成功は、自己効力感を高めることにつながっており、人間の機能に関するベイズの観点と結びつきます。ですから、私たちのねらいとして、低い自己効力感を示す人たちに対し、容易に適応でき改善が早く見られるように、活動の閾値を低く設定するべきかもしれません。私たちは、たいてい身体的な負荷とその適応が期待できる活動の量にばかり気を取られてしまいます。これは、人によっては潜在的にマイナスの経験を引き起こしており、治療への参加を促す妨げとなるかもしれません。初期のプラスな経験がなければ長期的に継続可能な成功に達することができないかもしれません。つまり、短期的には、生理学的にはそれほどではなくとも、心理学的には良いことなのかもしれませんが、治療への参加を継続することによって長期にわたりもっと素晴らしい生理学的効果を期待できるかもしれません。 エクササイズセッションを退屈しない楽しいものにするだけで、非常に効果のある結果が出せるのかもしれません。しかし、たいてい西洋医学の分野では、このようなことをあまり重要視していません。人はなぜスポーツをするのでしょうか? 単なる身体運動ということ以上に、いろいろな側面を楽しむためでしょう。 多くの場合人々は、チャレンジや面白さ、競争などに駆動されますが、このような側面をトレーニングにどのぐらいの頻度で取り入れますか? エクササイズや運動に関しての自己効力感を測定するために私がよく尋ねる質問は: 「動くことやエクササイズすることに対して自信を持っていると思いますか?」 「あなたは必要に応じて活動レベルを上げることができると思いますか?」 「運動やエクササイズをすることに対してやる気があると思いますか?」 動機付け 動機付けもまた、自己効力感の重要な側面でもあるようです。実際に動機付けになる何かを探す手助けをすることも重要かもしれず、またこれは、価値のある運動を特定する目標設定の過程で行われるかもしれません。そして、私たちは、それを達成可能なものに細かく分け、その人に動機付けを与えられるような小さな成功を生み出していきます。いわゆる、彼らの‘なぜ’を見つける手助けです。 エクササイズをする人が関心を持たないようなエクササイズプログラムがたくさんあります。特に、これまでにひとつもプログラムに参加したことがければ、そのエクササイズは彼らにとって十分な‘なぜ’ではありません。 私たちは、次のように質問してみます“活動に関して、あなたにとっての完璧な日とはどのようなものですか?”または、“あなたがしない、またはできないことでやってみたいことは何ですか?” また、自立性は、エクササイズの成功に関連するもう一つの要素であるため(ここをクリック)、‘これはあなたがやらなければならないエクササイズですよ’というアプローチよりも、選択肢やオプションを提供することが有効です。 計画 いつ頃どの程度行うのかを一緒に計画を立ててみることもまた、自己効力感に影響を与えるかもしれません。何らかのガイダンスがなければ、彼ら自身でそれが行なえるようになることは、制限因子となるかもしれず、運動への参加は、非常に大きな挑戦のように感じるかもしれません。 ベストな日はいつですか? 1日のうちで何時ぐらいにしますか? どのようなタイプにしますか? どのぐらいの時間行いますか? どのぐらいの強度にしますか? スマートフォンにリマインダーを設定しますか? どのように進めていきますか? これが成功しない場合の他の選択肢は何ですか? 結論 これまでの行動の経験は、将来の自己効力感に影響します。 社会的環境と支援は重要です。 自己効力感は、治療への積極的な参加を促したり妨げたりします。 自己効力感は、痛みや障害の結果に関与します。 自己効力感は、エクササイズの継続にとって重要です。 行動に関する勝利や良い経験を作りましょう。 自己効力感が低い場合、計画と動機付けという観点から、あなたが発信する情報が肝要となります。
治療に関する議論が嫌いな理由
私がネットで見る、あるいは関わるのが最も嫌いな議論は、治療に関するものです。治療が大事なのはわかりますが、これは本当にセラピストの間で最大の争点になっているようです。このテーマは、確かに人々が非常に熱くなり、あえて言うなら、少し身構えているような気もします。これは、議論、あるいは議論になりがちな不確実性の大きな領域です。議論の展開によっては、「何もかも」うまくいかないように思えたり、「何でもかんでも」うまくいくように思えたりして、少し不満や失望を感じることがあるでしょう。 しかし、ここからが私の問題なのです... 私が本当に不思議に思うのは、なぜ人は、問題を抱えた人をどう扱うのかではなく、問題をどう扱うかに熱狂し、アイデンティティを形成してしまうのか、ということです。これらの論議は、クライアントとのセッション中に起こる他のすべてのことを考慮しているようには決してみえません。もし、あなたが治療によって自分を定義し、それが「うまくいかない」としたら、そしてそれはかなりの割合の人にとってそうだとすれば、それから一体どうするのでしょうか? 私としては、これこそが、誤用されがちなBPS(Biopsychosocial/生物心理社会的)モデルのポイントだと考えています。BPSモデルは、問題そのものよりも、問題を抱えた人について考えることを意図しています/していました。 私は痛みを治療するのではなく、痛みを持つ人を治療するのです。それは、痛みがその人の人生や感じ方に大きな影響を与えることを認識すること、つまり、彼らの身に起きていることすべてに対する考えや気持ちを理解することです。それは、私がどのような介入、治療、モダリティなどを使って痛み(またはその他の結果指標)を治療するかということではなく、治療の全プロセスをどのように進めるかということなのです。 これは、もう少しリサーチ・リテラシーを高めるための良い理由になるかもしれません。治療のエビデンスをめぐっては、多くの大きな意見があり、実際に何がどの程度効果があるのか、そして更に重要なことに何が実際に効果があるのか、に関するバランスのとれた見解を得ることは難しいかもしれません。また、臨床で起こることと、コントロールされた研究で集団レベルで起こることは異なるかもしれないということも覚えておく必要があります。これは、研究を臨床に取り入れる際に常に問題となることです。私の臨床実践では、エビデンスを指針にしながらも、必要に応じて変化し、その人に合わせていくようにしています。 医療との出会いの中で、人々が経験するプロセスを考えたとき、アウトカムには実にさまざまなものが関わっているはずです。 それらは下記のようなものかもしれません: アセスメント(病歴&身体所見) コミュニケーションスタイル 私たちの説明と安心感 私たちが提供するサポートとガイダンス 行動変容の実施 治療はセッションのほんの一部に過ぎないことが多く(私にとっては)、これら他のことの全ては、頻繁に治療の寄せ集めの中に関与し、結果に影響を与える可能性があるのです。 実際、私たちがコントロールすることのできない多くのことが結果に影響するため、結果のうちどれだけが実際に私の治療なのかは、よくわからないことが多いのです。私たちに影響を与えるものの多くは、私たちが存在するシステムや社会に根ざしているのです。特定の治療法の結果にこだわるのではなく、私たちがコントロールできること、例えば、その人とどのようなプロセスを経て、どのような働きかけをするかということに、もっと関心を持つべきかもしれません。私は、適用されるものが何であれ、盲信するよりも、その方がずっと安心です。 ある人は健康状態を、ある人は手技を、ある人は基本的な安心感を、またある人は自分の動きに自信を取り戻すことを、あるいは上記のすべてを組み合わせて必要とするかもしれません。痛みの複雑さや人々の個体差を考えれば、なぜすべての人がたった一つのものを必要とすると期待できるでしょうか?