患者中心のケアのための簡単なガイド パート2/2

PCCの実践 人を中心としたアプローチを、活動/運動/エクササイズの単なる種類やセット数、レップ数だけと考えるべきではないかもしれません。それよりも、運動を取り巻くすべてのことであり、これを中心に紹介します(運動バイアスはあってもかまいません)。 終わりを意識して始める 回復がどのように見え、感じられるかを定義することがない限り、自分がそこに到達しているのか実感することはおそらく難しいでしょう。セラピストの役割は、その人がどこに到達したいのか、現在どこにいるのかを確認し、そのギャップを埋める手助けをすることだと思います。 まずは目的を念頭に置くことが最適なスタート地点としたら、これには何よりもまず、人の話を聞くことが必要です。傾聴と理解こそがPCCの真髄であると私は考えていますが、多くの人はヘルスケアの現場でこのようなことが常に行われているとは感じていません。 次の短い抜粋は、優れた論文からのものです:“‘非対面’から自律的な主体性まで。腰痛患者の医療制度における出会いに関する概念” Holopainen 2018年 “患者は、自分の話を聞いてもらえないと感じていた。彼らは、その対面が専門家主導であると感じ、医療提供者は彼らの希望や意見に耳を傾けることなく、彼らの言うことを遮り、否定していた” また、長い間、痛みを抱えてきた人にとって、目標や回復の過程を明確にすることはとても困難ということを認識する必要があります。痛みや苦しみの外に目を向けて、‘人生’とは何か、どのようなものか再び実感することは、難しいことです。 “患者は、痛みが自分の生活に及ぼす影響を認識し、以前は楽しんでいたことをあきらめ生活の輪が狭くなったと報告しました” - Holopainen 2018 ただ動くために動いているのではなく(これはこれで意味のあることですが)、これまで話し合ってきた価値ある活動や目標に向かってさらに前進するために動いているのだということを、私は強調するようにしています。そして、これがその人の内発的な動機につながることを期待しています。 目標がある内発的な動機には、大きな問題点があります。普通、彼らの成功は痛みや機能といったより全体的な評価に反映されることによって測ることができます(理学療法に関する研究では確かにそうです)。 私たちは、目標という素晴らしく個人的で具体的なものを持っているのですから、その目標そのもの!を達成することで、私たちは実際に成功を測るべきなのです。もしそれが痛みの変化を伴うのであれば、人を中心としたアプローチでは、もちろん目標に痛みを含めるべきでしょう。しかし、痛みの変化(評価項目 アウトカム指標)がなかったとしても、その人の生活の質に大きな影響を与える大切な目標を達成することができるかもしれませんし、全体的な評価手法では必ずしも捉えられないかもしれません。 私は、行動の背後にある“なぜ”は、その人によって決められなければならないと信じています。セラピーで行われることの多くは、最善の方法で痛みをなくしたり、機能を向上させたりすることで、セラピストのバイアスによって駆動されています。 もしかしたら、よく採用されている“方法”は、患者さんよりもセラピストのアイデンティティや価値観に合っているのかもしれませんよね? 共同意思決定と責任 先に述べたように、PCCと共同意思決定は、ただ誰かが望むことをするということではありません。意思決定を適切に行うためには、入手可能な最大限の情報と、最善の行動方針に対する専門家としての意見を提示する必要があります。 自律性は、エクササイズの成果に影響を与えることが示されています“自律性:プログラムを成功させるために欠けている要素?”もしかしたら、自律性と選択があれば、リハビリにおけるエクササイズとのより良い‘結びつき’につながるかもしれません。 エクササイズや運動、負荷のかけ方にはたくさんの方法があるので、いくつかの選択肢を提示して、次に進むためのベストな方法を選択できるようにすることはそれほど難しくないはずです。同様に、最良のデータと経験に基づいて、その人に‘ぴったり’と思われる最良の行動指針について意見を述べることがセラピストの責任でしょう。 このプロセスにおいて、お互いの責任を明確にすることは、重要なステップです。私はいつも、私はガイドや手助けをするためにここにいますが、あなたが実際にやってみて、それがうまくいくと信じなければうまくいきません、と言っています。時にはお互いにその過程や結果を報告する責任を果たすことも必要だと思います。 プランニング 私にとって、これこそが真の生物心理社会主義です。 私たちは皆、仕事や家族、社会的なプレッシャーのある世界に“組み込まれて”生活しています。BPSの視点を導入するための最良の方法の一つは、運動やエクササイズの計画は、時間や労力、他の何かを犠牲にするという意味で、“コストなし”ではできないということを認識することです。 人は、何かをすることが必要なのみでなく、それを実行できるための計画を必要としています。目的地が素晴らしくても、そこに到達するための道筋も必要としているのです。 みなさんはこれまでに、時間や場所、仕組みがはっきりしていないために、なかなか実行に移せないことがどれだけあったでしょうか? 運動をするのに最も適した時間帯はいつですか?仕事の前か後か。どのくらいの時間がいいのか?どんな感じでやればいいのか?円滑に行うための必要な情報を彼らは持っているのでしょうか? “‘非対面’から自律的な主体性”のもう一節では、次の点が強調されています: "書面による説明がないため、何をすればいいのかわからず、処方されたエクササイズができなかった" また、それぞれの社会的環境をうまく利用できるようにサポートすることも有益な方法です。私たちは、多くの“社会的”なものを変更することはできませんが、それらをもっと理解してもらい、導く手伝いはできます。たとえば、より活動的になるために地域社会のサポートを受けるにはどこに連絡したらいいか? 無料または低コストで利用できるリソースはあるか? また、支援団体や家族、友人など、助けてくれる人はいるか? 治療者としてではなく、ガイドとしての役割を果たすことで、多くの人が助かるかもしれません。 サポート&モチベーション 誰かのエクササイズフォームを批判したり、ある種の動きの機能障害を強調したりすることは、PCCとは正反対です。それによって誰かがどう感じるか、その人の行動にどう影響するか全く配慮に欠けています。しかし、もしあなたが単に病理に対して取り組んでいるということであれば、そんなことは気にする必要はないのでしょうか? 他人の立場になるということは、全く逆の見え方になるのだと言えるでしょう。 誰かを批判するのではなく、どうすればその人を引き立てられるかを考えてみてはどうでしょう。長所や利点を強調することを考えましょう。医療の現場では、モチベーションと楽観主義の持つ力を過小評価しているように私は思います。これは、フィットネスの世界ではコーチやトレーナーの役割の基本的な部分ですが、エクササイズを医療に取り入れるようになった際に失われつつあります。 患者さんは、自分自身でこのように言っています! “患者は、パーソナルトレーナーのように自分を後押ししてくれる人が必要である、と報告した” - Holopainen 2018年 おわりに 人を中心としたケアは、その人によって定義される PCCは単にその人が望むものを与えることではない 人は単なる患者(受動的な受け手)ではなく人である “他の人の立場に立つ”ことを考える 共同意思決定(エビデンスに基づいた)についてもっと考える 終わりを念頭に置いてスタートし、価値ある活動に結びつける 彼らの“自分の世界”へ導く役割を果たす 人をノックダウンするのではなく、人を育てる

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患者中心のケアのための簡単なガイド パート1/2

‘痛みの科学’と‘生物心理社会的’に続く最近のバズワード(流行語)は、‘患者中心のケア(ペイシェントセンターケア)’、略してPCCと呼ばれているものでしょう。 バズワードの場合、定義がかなり不十分で、厳密な説明があるわけではありませんが、私はPCCこそが、生物心理社会的(BPS)モデルを実践すべき方法であり、またBPSモデルが本来目指すべきもので、私達が現在持っている痛みに焦点を当てたバージョンではないと考えています。 この記事では、PCCをアクティブケアの中でどのように適用するかに焦点を当てていますが、多少脱線しても驚かないでください。 患者なのか人なのか? この分野のほとんどの文献は“患者中心のケア”について述べていますが、私は“人”を中心としたケアの方が好きです。それは、患者….を一人の人間に変え、双方向の関係の中でより“リアル”な存在にするからです。 “患者”という言葉は長い間、議論の対象となってきましたが、これに関しての興味深い文章から引用を二つピックアップしました。 "患者に代わる新しい言葉が必要か?" “Patient ”はラテン語の “patiens ”に由来し、苦しむや耐えるなどを意味する“patior”からです。この言語では、患者はまさに 受動的な存在で -必要な苦痛には何でも耐え、専門家の介入には辛抱強く耐えるということです。” “医療サービスの利用者と提供者の不平等な関係” これらの興味深い視点は、‘患者’が、個人として考慮されず、何をすべきかを指示される受動的な受け手であるという潜在的な視点を浮き彫りにしています。結局のところ、組織や病理はどのように扱われるかに関心がないのであれば、それを気にする必要はないということですよね? PCCとは実際何か? PCCを定義することは、誰にとっても難しいのかもしれませんね? ある人にとっての人間中心は、別の人にとってはそうではないかもしれませんが、議論の余地がある大まかなテーマや考え方はあるようです。 患者(人)を中心としたケアは、これまで次のように定義されてきました: “生物医学的な問題だけでなく、患者がドクターにもたらすあらゆる範囲の困難に関与しようとする姿勢” - Stewart 1995 “臨床医は患者の世界に入り、患者の目を通して病気を見ようとする”-McWhinney 1989年 “(一人ではなく)二人で行う医療” - Balint e al 1993 (引用:Meadら2000) 私にとってPCCの良いスタートは、セラピストやテクニック、メソッド、エクササイズなどを主役として見ないということ。私たちの助けを本当に必要としている人が主役です。それは、派手さや華やかさや台座を意味するのではなく、目の前にいるこの人が何を必要としているのか、彼らと同じ立場になるとどんな感じか?を考えてみるということです。 もうひとつの非常にシンプルな見方は、あなたならどのように扱われたいか?ということです。 Meadらは、"患者中心主義: 概念的なフレームワークと実証的文献のレビュー"の中で、"患者中心 "の5つの重要な側面を定義しました。 生物心理社会的視点(患者の人生) 一人の人間としての患者 力と責任の共有 治療の協力関係 一人の人間としてのドクター(人間らしさなどの個人的資質) Wijmaらは“理学療法における患者中心主義:どんなことが必要となるか?”を探求し、PCCを次のように定義しました。 “理学療法における患者中心主義とは、個人に合ったオーダーメイドの治療の提供、継続的なコミュニケーション(言語および非言語)、治療のあらゆる側面における教育、患者が設定した目標への取り組み、患者がサポートされ力を与えられる治療、そして患者中心の社会的スキル、自信、知識を持つ理学療法士という特徴を伴うものである。” PCCではないことは PCCに対する批判の中には、消費者主導の医療や‘彼らがしてほしいことを何でもする’というような考えを中心としたものがあるようです。PCCの本質である‘共有された意思決定’という考えは、消費者の医療という考えをある程度受け入れやすくするかもしれません。 このような議論は、治療の種類や、より受動的な手法の適用に支配されがちですが、私たちはこのようなPCCの還元主義的な見方に対して十分注意する必要があります。 誰かの好みに基づいて決定するのではなく、PCCの重要な部分は、人々が決定に参加することであり、その決定には、入手可能な治療に関する最良の情報と、最良の方針のためにも率直で正直な対話が反映されなければなりません。ただ単に“どのような治療を希望するか”ではなく。 MakoulとClaymanは、“医療場面における意思決定共有の統合的モデル”の中で、意思決定を共有するためのいくつかのステップについて述べています。 問題の定義または説明 選択肢の提示 長所と短所(利益/リスク/コスト)を議論する 患者の価値観や好みを評価する 患者の能力や自己効力について議論する 医師の知識や推奨の提供 理解度の確認、明確化 決断を下す、または明確に決定を延期する フォローアップを手配する 人々が本当に望んでいるものは何か? このことは、“人は何を望んでいるのか”ということにうまくつながるものの、好きな治療法の種類を中心に展開することではなさそうです。 PCCは、エンドユーザーである人が広い医療の世界にどう適合するかではなく、彼らのために医療に何ができるかを考えることでしょう。そのためには、彼らに尋ねる以上により良い方法があるでしょうか? 質的調査が増えることは、素晴らしく、人々が何を考え、感じ、最終的に何を必要としているかを理解するのにとても役立ちます。 これは、腰痛における二人の視点に関するとても興味深い論文です:「聞いて、教えて」:非特異的慢性腰痛の患者を対象としたケアにおけるパートナーシップに関する質的研究 この論文の著者は、いくつかの重要な領域を指摘しています。 施術者とのパートナーシップ “参加者全員が、ケア提供者とケア希望者の間で、共通の治療目標を設定するために、互いに情報を引き出し、問題を解決し、交渉し、再交渉する必要があると述べています。” ‘私に質問して’ "意見や目標を明確に尋ねられた場合、医療提供者との関わりが改善された、とすべての参加者が報告した。" ‘私を理解して’ "生活環境や好みを考慮することは、治療上のパートナーシップを築き、運動の成果を最適化する上で、すべての参加者にとって重要であった" ‘私の言うことを聞いて’ "私が理解できるように説明して" –適格で共感できる聞き手を大切にする "自分の体のことは分かっている" - 参加者は‘自分の体を知る’ことが力になると考えています。 しかし、次の文章は特に私の心に響きました: "患者がパートナーシップの中で真の声を求めていることと、患者が医療従事者に明確な診断と最善のマネジメント指導を求めていることの間に緊張が存在していた" それは重要なのか? 人を中心としたケアについてよく聞かれる質問に、PCCは実際に‘アウトカム’を改善するのかというものがあります。PCCがアウトカムに与える影響は実際に重要なのか、そしてどのようなアウトカムについて議論しているのか、というのが私の反応です。 状況的要因が結果に影響を与えることは分かっていますが、PCCが特に最も一般的なアウトカム指標を改善するかどうかは分かりません。しかし、痛みや機能などが変わるかどうかに関わらず、人を大切に扱うことは正しい方法だと私は考えています。現在、多くのデータがあるわけではありませんが、私の見方では、多くの人にとって一般的なアウトカム指標ではなくても、医療における個人的な経験(それ自体がアウトカム指標かもしれませんが)に違いをもたらすと思います。

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腰痛のためのエクササイズは意外な効果が!

腰痛のためのエクササイズは、総じてヘルスケア全般にわたって、かなり問題のある事柄において、ある程度有益のように見えます。メタ分析を含む最近の系統的レビューは、ほぼ全ての種類のエクササイズにおいて、有益な効果を発見しました*ここをクリックしてください*。ピラティスのようないくつかの種類のエクササイズは、より秀でているともてはやされていますが、最近のコクランのレビューによれば、これは当てはまらないようです*ここをクリックしてください*。 私は、一般的な腰痛と治療的エクササイズに焦点を合わせる方法に関して、考えさせてくれた腰痛に関する二つの研究に注目したいと思います。両方ともあまり目立たなように見えますが、私見では、私達の治療的エクササイズの捉え方に対して、深遠な意味を持っていると思います。 最初に、2012年の系統的レビューを見てみましょう。 “非特異性慢性腰痛における運動療法後の有益な臨床転帰は、目標とするパフォーマンスにおける同様の向上を条件とするのか?系統的レビュー” この研究論文は、慢性腰痛における運動療法試験に着目しました。彼らは初期検索の1217報の論文から、試験対象患者基準を満たす13報の無作為化比較試験と5報の非無作為化比較試験に絞り込みました。 レビューの目的は、これらの試験に含まれている科学的根拠が、運動療法後の目標とした身体機能面で、患者の痛みの変化を立証しているかどうかを発見することでした。身体機能面は、可動性、体幹伸展と体幹屈曲の強さ、背筋の持久力に関するものでした。 研究者視点からのポイントは、その結果が目標とされた運動プログラム面と実際に結びついているか否かではなく、慢性腰痛における運動の介入が、痛み、あるいは身体障害のような、肝心な結果変数に影響を与えたかどうかという研究報告でした。 10報の研究では、痛みの変化と矢状面(屈曲と伸展)での可動性における関連性を調査しました。7報の研究は、相関関係だけではなく立証するデータがでず、3報の研究では、データとの相関関係すら見つけられませんでした。著者は、このデータのメタ分析を行い、可動性の変化と痛みの変化の間の全相関が、極めて低いことを発見しました。 9報の研究と5報の研究は、それぞれ体幹伸展と体幹屈曲の強さを調査しました。利用可能なデータでのメタ分析は、痛みの変化と強さの変化の間には、有意な相関関係がないことを示しました。 筋持久力に関しては7報の研究の中で行われ、相関関係だけでなく、特定の相関係数もありませんでした。 身体障害、強さ、可動性に関する相関関係もあまり興味深いものではありませんでした。 著者達は下記のように述べています: “私達は、入手可能な文献は、慢性腰痛における運動療法後の臨床転帰の変化と身体機能の変化の間に、納得できる関連性を立証していないようであると結論付ける“ “結果は、慢性腰痛における運動療法の治療効果が、筋骨格系の変化に直接的に起因するという考えを立証していません。慢性腰痛における運動療法の有効性の増大を目的とする今後の研究は、症状改善に影響している偶発性の要素を詳しく調査するべきです” 人々はエクササイズで改善するでしょう。私達は、運動が効果的であることを知っていますが、弱さや柔軟性の低さが腰痛の原因である、あるいはその解決に取り組むことが腰痛の問題に対する治療法であるということを意味していないのかもしれません。これらの著者達は、エクササイズの効果は、心理的、認知的、あるいは神経生理学的適応のように、‘局所的’変化というより、より‘中枢的’であるかもしれないと感じています。 これらは、運動パターンと感覚入力の変化、皮質再現、あるいは身体図式における変化、そして、療法士/患者のポジティブな相互関係を含めたのでしょう。恐怖回避や破局的行動の減少を伴ったのかもしれません。 血流量の向上や、単純により多く動くことによる人々の全体的な健康の増進、または人々の‘ホメオスタシスの領域’の細胞レベル、あるいはより中枢神経系に基づいた活動の増大といった、運動に関連する基本的な生理学的プロセスを軽視することができるとは考えていません。 もう一つの潜在的な問題は、人々に‘強くなる’必要があると言うことが、どのように彼等の能力への認識に影響を与えるのかということです。多くの人達にとって、それは彼等弱いところからスタートするという意味を含み、よって、真実かもしれないし、真実でないかもしれないリスク増大はしばしば、仮定される代わりに定量化されてしまいます。 以前に私が議論してきたように、多くの治療的エクササイズは、ほとんど筋力強化にはなりませんが、より多くの運動を伴うのです! この文献は、なぜエクササイズが有益であるのかという理由の背後にある潜在的なメカニズムをどのように見ているのかを問いかけていると思います。 次は、目標設定に関する短い文献です。 “慢性腰痛における目標設定を指導された患者−どんな目標が患者には重要で、その目標は私達が評価するものに沿っているのか?” この文献は、対象者20名のうち27名の特有な目標のうち、身体活動に関連する目標が最もよく見られる(49.2%)ものであったことを確認しています。2番目に多かった目標は、14.29%を占める職場に関連するものでした。この文献に、これらの目標が何であるかという幾つかの例を含めることで有意に裏付けされ、人々が重要だと思う機能的活動が分かったであろうと強く感じます。私はそれらが、彼等が靴ひもを結んだり、子供を迎えに行くことのような物事と関連しているのではないかと思います。これらは、強さや関節可動域(ROM)のような、より臨床的変数に関連して調査されていないかもしれないけれど、重要で、関連性があり、有意義な目標です。それらはしばしば関連性なく、単にこれらの構成要素を分離させて、単独で考えていては解決されない身体的なパフォーマンスの側面を含んでいるかもしれません。 この研究結果は、患者の目標が、理学療法士によって使用される一般的な評価基準に全く沿っていないということを発見しました。従来の評価基準は、痛み、筋力、関節可動域(ROM)でした。ここでの議論は、これらの従来の評価基準が、患者が彼らの目標を達成することを可能にする助けとなるであろうということですが、ただ、これは仮定にしか過ぎません。もしあなたが、誰かがあなたの思い通りの評価基準を達成したと感じたとしても、それは、彼等の評価基準には、あまり関連性が無いのかもしれません。 著者達は次のように述べています: “臨床転帰の評価基準は、患者にとって有意義な治療の成功についての正確な情報を提供していないかもしれない。患者の選択によって動かされる治療介入を決定するために、臨床医は慢性腰痛患者との共同アプローチを考察するべきである” 誰かが痛みをあまり経験しないように助けることは、単純かもしれません。一例として、もし彼等が前屈をすることによって腰痛があるのであれば、彼等にその動作を避けるように告げることです。成功に関するひとつの観点は、前屈において痛みが無いこと−目標達成です。もう一つの観点は、再び靴ひもを結ぶためにしゃがむことが可能になること−目標は達成できていません。痛みの評価基準の削減は、当事者から見た成功を意味するわけではないのです。人々は、痛みの無い身体障害の感覚を味わうより、より良い機能性を伴うかなりの不快感に耐えようとするのかもしれません。 これら二つの文献は、治療的エクササイズと前向きな結果の背景にあるメカニズムにおける従来の考え方に挑んでいるのだと、私は考えます。私達がメカニズムに関して、理解すればするほど、エクササイズのパラメーターをよりうまくデザインすることができるでしょう。強さ、あるいは関節可動域に関する評価基準の使用は、人々の目標に沿うものではなく、これらの評価基準の変化によって回復が左右されるわけでもありません。 恐らく、成功は従来の評価基準によって常に定量化されるわけではなく、結局のところ、結果の成功は、これらの評価基準にかかっているのではなく、治療的エクササイズが適用される人たちの認識にかかっているのです。非難されるかもしれませんが、これらの結果は私達の身体の他の部分にも適用することができるのではないかと提案しますs! 私見では、量、関連性(考えられている場合でも)、喜びは、慢性腰痛患者における運動の鍵となる要素ではないかと考えます。これらの変数がさらに調査されるのを、是非みてみたいと思っています。

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痛みにおける姿勢の評価・非難する理由の背景にある科学はデタラメである

もしソーシャルメディアで姿勢、あるいは痛みの問題について言及する全ての人にお金が支払われて、それを私が受け取っていたら…、私は今頃、裕福になっているでしょう。 痛みの無い人達と腰痛、肩痛、頸部痛を患っている人達の姿勢を比較する数多くの研究があり、実際の差異は発見されていないにも関わらず、この情報は通常無視され、腰痛、肩痛、頸部痛について口にするとき、姿勢は文字通り人々の思考に深く染み込んでいます。 決して科学的知識に良いお話の邪魔をさせてはいけません!特にインターネット上では尚更です! 実際、私は以前に何度か姿勢に関して記述しています:) とはいえ、科学的知識で始めましょう。2016年に発表されたこの研究論文*ここをクリックしてください*では、腰痛患者と腰痛を持たない人達の間の腰椎前彎(脊柱彎曲)において、有意差は発見されませんでした。 これは非常に重要です。いかにして、痛みの無い人達に見られる何かを痛みの原因として非難することができるのでしょうか?    十分に理解しましょう…。 私達は何を測定しているのか? このブログで私達は、どのように姿勢を評価するのか、そして、それは科学的に有効なのかどうかということに関連しているいくつかの疑問を調査します。まず始めるにあたって、優れた測定方法を持っていなければ、問題に関する何かを非難するのは非常に困難ですから。 実際の科学的根拠に関する最初の情報は(姿勢に関する議論でしばしば欠けていますが)、立位での腰椎彎曲の測定に着目すること(しばしば脊椎彎曲は腰痛の原因として非難される)。この評価は、世界中の治療室やジムにおいて行われているものです。 腰椎彎曲は腰痛における大きな要因ではないようではありますが(上記の科学参照)、腰椎彎曲の増大(時折減少)は腰痛を増悪させるという考えは、骨盤の傾きが腰椎彎曲の大きさに影響を与えているという考えとしばしば組み合わさっています。 かなり昔、1990年に、この考えはHeinoおよびその他によって研究され*ここをクリックしてください*、骨盤傾斜角と腰椎彎曲は単純に相関関係が無いということを発見しています!骨盤のポジションに着目することが、測定がより困難である腰椎で何が起きているのかに関して伝えてくれることはほとんどありません。これよりも以前の1987年に発表された非常に類似した研究*ここをクリックしてください*もまた、同様の結果を輩出しましたが、このデタラメは、今日いまだに教えられています。 ともかく、立位の測定に関する研究論文*ここをクリックしてください*に戻りましょう。著者は、400名(無痛者332名、腰痛罹患者83名)の立位姿勢における変動性に関して調査し、立位の際は毎回やや異なる方法で立っていることを発見しました。 著者は彼等の言葉で“立位は非常に個性的で、再現性に乏しい”と述べています。 では、これがなぜ重要なのでしょうか? 簡単に言えば、あなたが姿勢の評価をする際、実際にどの姿勢を測定しているのかということです。ある姿勢は大きな彎曲を、またある姿勢は小さな彎曲を示すかもしれません。 この情報を踏まえて、姿勢評価の解釈の仕方に関していくつかの疑問があります。 これらの姿勢のうちのどれが問題に関連しているのか? 何回測定して、何回平均値を求めるのか? 彎曲が過剰、あるいは彎曲が不十分かどうかを決定するために、何に対して比較するのか? 著者は、立位姿勢における一貫性の欠如は、実際に“間違った診断と場合によっては不必要な治療”に通じるかもしれないという点を強調しています。 もしあなたが問題ではないことを重要視すれば、それが効果を表していない、あるいは一時的にしか効果を表していないという事実(潜在的になぜかなりひどい腰痛が持続するのか)がわからなくなるかもしれない、何か他のことに注目しなくなるでしょう。 人々が日常生活で用いているものもまた、クリニック、あるいはジムで測定されるものとは異なるかもしれません。クリニックやジムで測定するものは、‘スナップ写真’として表現されるかもしれません。そして、この研究*ここをクリックしてください*は、この‘スナップ写真’を研究の被験者によって日常的に実際に用いられているものと比較しました。 著者は立位時の平均値が姿勢評価時の腰椎前彎は最大で33.3度であったのに対し、24時間通しての平均値はたったの8度であることを発見しました!。とても大きな差異です! ‘スナップ写真’的な姿勢評価は、どの程度の前弯が実際に用いられているのかに関して、私達に十分に情報を与えてくれないでしょう。そして、実在しない問題の及ぶ範囲を多く見積もり過ぎてしまうかもしれません。 また、これらは放射線測定であり、臨床における‘最高基準’であることを忘れてはいけません。しばしば腰椎前彎は、骨盤傾斜を示している骨盤上の目印の関連性に着目するといった、より初歩的な方法で測定されますが、これと腰椎彎曲とのはっきりとした関連性は無いことを私達はすでに議論しています!これ自体、2008年にPreeceの研究*ここをクリックしてください*によって、問題として立証され、骨盤の形態学もまた変動的であり、誤った測定に通じるとされています。 “これらの結果は、骨盤の形態学におけるバリエーションは、骨盤傾斜と左右非対称な寛骨の回旋の測定に有意に影響を及ぼすかもしれないということを示唆している” ここにASIS(上前腸骨棘)−PSIS(上後腸骨棘)の左右差における関連性(骨盤傾斜を測定するために使用された)の配分があります。右側に偏っていることが見て取れ、骨レベルでより前傾していることを意味しています。 つまり、私達がそれほど問題ではないことを測定することが本当に苦手であるということかもしれません。なんてことでしょう! あなたは先入観にとらわれている? 姿勢を測定する人達にとってもう一つの重要な疑問は…、痛みが存在することを知っている際に、更に姿勢の‘異常な点’を見ようとする傾向があるのかということです。 この研究論文*ここをクリックしてください*は、そのように示唆するでしょう。ここで著者は、しばしば肩痛の原因として提案される、肩甲骨の運動障害、あるいは肩甲骨の異常な位置と動作に着目しています。 彼等は、肩に痛みを持つ人67名と無痛の人68名を比較し、二つのグループの間において、肩の位置、あるいは動作には差異が無かったことを最初に発見しました。 興味深いことに、評価者が有痛者を評価していることをわかっていた際、彼等は  姿勢、あるいは動作の問題に対して高い罹患率を報告していました。有痛者における‘異常な点’が無痛者と同等の場合であっても、有痛の場合ににおいては、非難すべき‘異常な点’を発見することに対して先入観があることを示しています。 著者はまた、肩甲骨の運動障害は実際のところ、個体間における正常な変動性を表していると示唆しています!恐らく、もし彼等が何度も肩甲骨の運動障害を評価すれば、異なった測定値を出すのではないでしょうか?まず始めに、逸脱に対する基準として用いられる有意に定義された‘良い姿勢’など無い、ということを覚えておくことが重要です。 健常者はどのように座るのか? もう一つの疑問は、腰痛を患っていない人達が実際にどのように振る舞うのかということです。彼等は日常的に素晴らしい姿勢をしているに違いないということですよね?しかし、実際はそんなことはありません。 この研究論文*ここをクリックしてください*は、前かがみの姿勢で座る無症状の50名の状態を示しています。10分間の座位で、立位姿勢と比較して、脊椎角度は腰椎で24度屈曲、胸腰部で12度を示しましたが、この前かがみの姿勢での座位は、彼らに問題を起こす原因になっているようには見えませんでした。 下記のグラフからも見て取れるように、脊椎彎曲の変化は、痛みにはそれほど関連していないように見えます。 もし姿勢と痛みが相関関係になければ、痛みは何と相関関係があるか? この研究論文*ここをクリックしてください*は、頸椎のアライメントの変化が実際に年齢と相関関係にあることを示しています。この研究は被験者を年齢に応じて4つのグループに分けました。そして、4つのグループ全てにおいて、年齢の増加に伴い、頸部の角度の値が全て相関関係にあるということを発見しました。 ここでの覚えておくべき重要なポイントは、120名の被験者全員が痛みを患っていないということです。実際に、ここでの除外基準はかなり厳格で、著者は実際に、現在痛みを抱えている、あるいは痛みの既往がある64名(標本の3分の1にあたる)を除外しました。 簡潔に言えば、私達は年を重ねるにつれ、姿勢は‘より悪く’なり、あるいは、恐らくもっと正確にいれば、姿勢は(角度を)増大させる…。しかし、これは重大なしかしですが、これが更なる痛みの原因のようではありません。 要約すると、あなたが読んだり、バー、ジム、治療室で言われたりするような、‘悪い’ 姿勢=痛みというほど単純なものではないようです。 覚えておいてほしいこと 痛みを抱えている人達と痛みの無い人達とでは、姿勢に差異は無い。 姿勢は動作と同様に変動性を示している。 これは、行なっている評価があなたが思っていることを示さないかもしれないということを意味している。 あなたの評価は、姿勢の‘問題’を見つけ出そうとする先入観を持っているかもしれない。 1日を通して用いられている姿勢は、恐らく評価される姿勢とは異なるであろう。 私達は歳を重ねるごとに姿勢は変化し、これは痛みの無い人にも起こることである。

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股関節伸展のエクスカージョンアセスメント

クライアントの股関節伸展能力を評価するために、後方へのリーチを使って骨盤のエクスカージョン(並行移動)を起こす方法をベン・コーマックがシェアします。更に、このケースにおいては、左右の股関節のROMは同じであったとしても、左右それぞれの股関節の神経系の制御には違いがあるかもしれないことを示唆しています。

ベン・コーマック 10:04

自己効力感:よく使われる用語ではあるが、十分に理解されているのか?

自己効力感は、最近、特にリハビリへのよりアクティブなアプローチが受け入れられるようになったことで、治療の現場でもかなり一般的に使われている用語です。 そこで、一体それがどのような意味なのか、なぜ重要なのか、そして、どのように高められるのか?などを明確にしなくてはなりません。 実は、私がこのブログを書いている最中に、私のツイッター友達でもあり同僚でもあるジェリー・ダラムが、その質問をしてきたので、この題材にちょうど良いタイミング!と思ったわけです。そしてこれはまた、頻繁に使用する用語に対して、しっくりくる定義がないということも表しています。 まず、それがどのような意味なのか?から取りかかりましょう これは、70年代にバンドゥーラによって作られた用語で、彼はそれを、‘特定の活動に関連したある行動を遂行する能力があるという信念’と説明しました。 また、自己効力感は、‘レジリエンス(立ち直る力)のある自己信念システム’とも説明されました。 私は、これを“私に任せて”や“私にできる”という感覚だと説明したいと思います。 たとえ痛みがあっても、日常生活の活動を実行したり、機能性を維持したりする能力の認識、あるいはするなどは、痛みに関しての自己効力感となり得、また、特定の運動やエクササイズといった運動療法にもなり得ます。 そこで、もし、あなたの親切なセラピストが、腰痛の改善のために散歩に出かけることを提案したとして、あなたはそうしてみようと思うでしょうか? やる気が起こらないかもしれませんね? おそらく体力的にできるのかどうか自信がないかもしれませんね? 忙しくて、そのようなことをする時間が取れないと思うかもしれませんね? 低い自己効力感は、克服できることではなく回避すべき恐怖としてとらえる行動の変化という結果的に厳しい状況に陥ることがあります。 バンドゥーラは、認知的、動機付け的、情動的(感情的)といった、自己効力感に関与する多くの心理的過程を明らかにしました。価値のある目標を持つことや活動をすることも、これらの要因に関連しているようです。自己効力感やレジリエンス(立ち直る力)に関する文献は、この過程の重要な部分である価値のある活動を重視しています。ここをクリック さらに、バンドゥーラは、自己効力感を生み出す4つの源を明示しました。 熟達 活動や動作にどれだけ熟達しているかは、将来の能力への認識に影響を及ぼします。人間は、周囲で起こる不確実なことに対して、過去の経験をもとに推測し見当をつけるものであることが分かり始めています。私たちは、過去に何らかの成功を経験していれば、再び克服できると知覚する傾向にあります。これは、成功のしやすさにも関係します。その成功が容易だった場合、いざ困難に直面したらすぐに辞めてしまうかもしれません。また、それが成功しづらかった場合には、目の前に立ちはだかるどんな困難も乗り越えることに慣れているかもしれません。 このように見てみると、これまでのエクササイズの継続や積極的な取り組みが、将来のエクササイズの継続にとって重要であることが分かります。ここをクリック 経験 私たちを取り巻く環境も、能力に対する認識に影響します。あなたと似た境遇にいる、つまり自分が成し遂げようとしていることと似ていることにチャレンジしている人が周囲にいたならば、このような目標は達成可能であるとあなたは認識するでしょう。これは、私たちが目にするメディアから所属している社会活動や家族までの幅広い環境であるかもしれません。このことは、痛みの社会的側面を強調しており、非常に重要と思われます。 痛みの社会的要因に関する最近の素晴らしい論文があります。ここをクリック 説得 さて、これはプラスにもマイナスにもなり得ます。もちろん、プラスによりもマイナスに影響されやすいものです!しかし、特にこれまでの成功体験を重要な要素として捉えるならば、ある作業を成し遂げる能力があることを口頭や経験で説得されると、その人は、その作業を遂行することができる傾向にあります。 ネガティブな感情 ある活動に抱いている強烈なネガティブ感情やその活動にまつわるマイナスの認識も、その人が持っている自己効力感の程度に影響するでしょう。自信喪失は、たいてい行動にマイナスに働く感情です。 そこで、なぜそれが重要であるのか? これも確認しておかなくてはなりません。 複数の論文において、自己効力感は、さまざまな障害や疼痛の尺度において、よりよくない結果にリンク付けされているように見受けられます。現時点では、これが要因であるとか、自己効力感を高めれば、アウトカムも改善することに繋がるとは単純には言えません。しかし、もし危険を承知で言うなら、特に、治療の一環としてアクティブアプローチをより推奨しているのであれば、やはり因果関係はあると思うのです。 もちろん治療のためのエクササイズは、実施されなければ意味がありません。そして、もし、私たちがその治療を患者に施せなければ、エビデンスに基づく医療はうまくいきません。 2010年、フォスターは、通常の活動を行う能力に対して低い自信や低い自己効力感を持つ腰痛患者において、6ヶ月で障害が悪化すると予測されることを明らかにしました。実際、不安回避や破局的思考、鬱よりも良かったとされています。ここをクリック 2014年、キーディは、痛の管理に関連した行動に着手する能力、痛みに関する自己効力感がないことは、腰痛のためのリハビリテーションの結果に関係していることを示しました。ここをクリック 2018年のチェンによる腰痛に関する5年間のフォローアップでは(ここをクリック)、消極的行動尺度が大きいほど結果が悪くなることも判明しました。消極的な対処方法は、痛みを制御するために、自己効力感にも影響する信念システム(ここをクリック)のような内的要素よりも外的要素に頼ってしまいます。 自己効力感は、エクササイズによる介入の継続に必須であるとされています。これらの研究では、低い自己効力感は、ホームエクササイズプログラムを組んでも継続しない予測因子でした(ここをクリック & ここをクリック)。エクササイズの根本に目を向けてみると、もし本人がそのエクササイズをできる気がしないのであれば、全く無駄な過程になってしまいます。セット数やレップ数に注目するよりもこの領域に時間を費やした方が、エクササイズの継続を劇的に改善でき、結果にもつながるかもしれません。 私はこれを、ドーナッツ本体ではなくその穴に注目する、と言っています。 それを変えるためには何ができるでしょうか? 成功! 最初のステップは、単純に成功体験を作ることかもしれません! これまでにエクササイズが継続できたことや改善できたという成功は、自己効力感を高めることにつながっており、人間の機能に関するベイズの観点と結びつきます。ですから、私たちのねらいとして、低い自己効力感を示す人たちに対し、容易に適応でき改善が早く見られるように、活動の閾値を低く設定するべきかもしれません。私たちは、たいてい身体的な負荷とその適応が期待できる活動の量にばかり気を取られてしまいます。これは、人によっては潜在的にマイナスの経験を引き起こしており、治療への参加を促す妨げとなるかもしれません。初期のプラスな経験がなければ長期的に継続可能な成功に達することができないかもしれません。つまり、短期的には、生理学的にはそれほどではなくとも、心理学的には良いことなのかもしれませんが、治療への参加を継続することによって長期にわたりもっと素晴らしい生理学的効果を期待できるかもしれません。 エクササイズセッションを退屈しない楽しいものにするだけで、非常に効果のある結果が出せるのかもしれません。しかし、たいてい西洋医学の分野では、このようなことをあまり重要視していません。人はなぜスポーツをするのでしょうか? 単なる身体運動ということ以上に、いろいろな側面を楽しむためでしょう。 多くの場合人々は、チャレンジや面白さ、競争などに駆動されますが、このような側面をトレーニングにどのぐらいの頻度で取り入れますか? エクササイズや運動に関しての自己効力感を測定するために私がよく尋ねる質問は: 「動くことやエクササイズすることに対して自信を持っていると思いますか?」 「あなたは必要に応じて活動レベルを上げることができると思いますか?」 「運動やエクササイズをすることに対してやる気があると思いますか?」 動機付け 動機付けもまた、自己効力感の重要な側面でもあるようです。実際に動機付けになる何かを探す手助けをすることも重要かもしれず、またこれは、価値のある運動を特定する目標設定の過程で行われるかもしれません。そして、私たちは、それを達成可能なものに細かく分け、その人に動機付けを与えられるような小さな成功を生み出していきます。いわゆる、彼らの‘なぜ’を見つける手助けです。 エクササイズをする人が関心を持たないようなエクササイズプログラムがたくさんあります。特に、これまでにひとつもプログラムに参加したことがければ、そのエクササイズは彼らにとって十分な‘なぜ’ではありません。 私たちは、次のように質問してみます“活動に関して、あなたにとっての完璧な日とはどのようなものですか?”または、“あなたがしない、またはできないことでやってみたいことは何ですか?” また、自立性は、エクササイズの成功に関連するもう一つの要素であるため(ここをクリック)、‘これはあなたがやらなければならないエクササイズですよ’というアプローチよりも、選択肢やオプションを提供することが有効です。 計画 いつ頃どの程度行うのかを一緒に計画を立ててみることもまた、自己効力感に影響を与えるかもしれません。何らかのガイダンスがなければ、彼ら自身でそれが行なえるようになることは、制限因子となるかもしれず、運動への参加は、非常に大きな挑戦のように感じるかもしれません。 ベストな日はいつですか? 1日のうちで何時ぐらいにしますか? どのようなタイプにしますか? どのぐらいの時間行いますか? どのぐらいの強度にしますか? スマートフォンにリマインダーを設定しますか? どのように進めていきますか? これが成功しない場合の他の選択肢は何ですか? 結論 これまでの行動の経験は、将来の自己効力感に影響します。 社会的環境と支援は重要です。 自己効力感は、治療への積極的な参加を促したり妨げたりします。 自己効力感は、痛みや障害の結果に関与します。 自己効力感は、エクササイズの継続にとって重要です。 行動に関する勝利や良い経験を作りましょう。 自己効力感が低い場合、計画と動機付けという観点から、あなたが発信する情報が肝要となります。

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リハビリテーションにおける教育 – それは一体何を意味するのか…?

教育、教育、教育。現代の筋骨格系の臨床に関連して、この言葉をどれくらいの頻度で耳にするでしょうか? ごめんなさい、間違えました。教育&運動、教育&運動、教育&運動 : ) いつだって答えはシンプルです! しかし、教育もエクササイズと同じように、非常に一般的な言葉で語られながら、実際に適用するためのフレームワークがほとんどないという問題を抱えているのです。どのガイドラインをみても、教育が治療の中心であるかのように示していますが、実際には何の方向性も示されていないことが多いのです。私には、セラピストが不確実性に直面し、より伝統的な視点に戻ってしまう理由が分かるような気がします。 では、教育とは何について? いつ? どのように? 誰に対して? よくよく考えてみるとこのような疑問が湧いてきます。教育はここ数年、痛みに関する教育に乗っ取られていますが、実際には筋骨格系の臨床の根幹を成しています......永遠に。教育については、私が授業でたくさん話していることですが、生徒は、“ベン、早く本当の治療の話をしてくれ、こっちは退屈しているんだ”と感じているのが私には伝わってきます。 教育が適切な治療と見なされますか? 私はまだ確信していません。 人は常に情報を求めてきた これは今に始まったことではありませんね! “私の今回の腰痛は、いつもより少し長く続いているので、診てもらった方がいいと思って”と来院される方がよくいらっしゃいますね。 例えば、腰痛は2~6週間続くことがあり、これは全く普通のことだと私達は知っています。しかし、これまで数日間しか問題がなかった人にとっては、おそらく少し心配になり、ストレスの多い状況で膨らんでくる心配を減らすために、何が起こっているのか知りたくなるのでしょう。 人々は痛みを取るために私達のところへ来るのは確かなのですが、それだけではなく、自分の問題やその意味を理解し、対処法を知りたいと思っているのです。 Louis Giffordは、多くの人の間でかなり普遍的な事柄を強調しました。それは何なのか? いつまで続くのか? それに対して何ができるのか? その他に私が定期的に受ける質問は、“XXXはまだできますか…”というものです。人々はまだ何かをしたいのですが、問題を悪化させたくないと考えています。しかし、しばしば、分別良く対処するための知識を得るよりも、怖くなって活動を減らしてしまいます。 教育かまたは知識の伝達か? 私たちは“教育”という言葉を使いますが、“教育”というと、学校でやんちゃな子供たちを前にした厳しい教師のイメージがあり、私たちが実際に行なっていることをあまり反映していないように思います。 教育とは、その人が問題を理解するのを助け、問題に関する不確実性や危険性を減らし、前進する道筋を提供することなのかもしれません。これは、従来の教訓的な教育モデルよりも、知識の伝達を組み込んだパートナーシップの視点と言えるでしょう。つまり、知識の伝達や意味付けという言葉の方が適切なのかもしれませんね? 私たちは何について‘教育’できるのでしょうか? (たくさんのこと、というのがシンプルな答えです・・・) それは何か? おそらく、人々が最も望んでいるのは、診断ではないでしょうか。診断名が分かれば、効果的な治療ができる、ということですね? そうかもしれません・・・しかし、多くの筋骨格系の問題では、構造的な観点からそれが不可能であることが分かっています。このような条件下で、私たちは、問題に対して前向きで一貫性のある説明が必要なのです。その中には、痛みに関する教育も含まれますが、痛みに関する情報が優先である必要はありません。 "非特異的な筋骨格系の痛みで、痛みの原因が明らかではなく、画像診断でも所見がなく、治療によって痛みが完全に緩和されるとは限らない症例では、特定の診断がなくても、具体的で明確、かつ一貫した情報が回復の助けになる“ Carroll et al 2016 回復にどのぐらいかかるのでしょうか? 腰や膝、肩の痛みなど、診断がはっきりしない場合、予後とそれに影響する要因を知ることが、とても役に立ちます。現実的な予測を設定することも重要です。期待値が高すぎると、それが達成されなかったときに失望することになりますし、低すぎると、それを取り組むモチベーションが低下し、成果が限定的になってしまいます。 それに関して何ができるのでしょうか? 健康やライフスタイル、エクササイズ、活動、自己管理など、私たちがお手伝いできることはたくさんあります。私が思うに、管理計画を効果的に作成するための手助けが断然不足しています。ここでもまた、これを治療と見なしてもらえるのかという疑問がありますね? 相手が知りたいことは何なのか? 実際に効果的な知識の伝達のためには、相手が何を知りたがっているのか、時間をかけて探ってみることが重要かもしれません。ただ情報を流すだけでは、重要な疑問が解決されないままになってしまうかもしれません。私たちが考えもしなかったこと、あるいは重要でないと思っていることで、他の人が抱いている疑問は非常に多くあります。もし、その人にとって重要なことであれば、私たちにとっても重要であるはずです! "あなたの問題で一番心配なことは何ですか?" "私に話しておきたい大きな悩みはありますか?" "この件で一番恐れていることは何ですか?" "私が今日お答えできる最も重要な質問は何でしょう?" 状況 私の友人であるJoletta Beltonが言うように、“生物学的、経歴的な意味”を持たせる必要があるのです。これが痛みの教育で大きく欠如していたことだったと私は思うのです。自動的にその人の話に溶け込めるわけではありません。パブで見知らぬ人が自分の人生について話しているときに、自分とは関係ない話をされているようなものです。自分のことばかり話す友人もそのひとつ例で、あなたはその場から逃げ出したくなるでしょう。 ですから、あなたの知識の伝達が、実際にその人とその人のストーリーに関連する形で行われるようにしてください。 失敗 私たちが役に立つと期待するものの中に成功しないものがあるのは、このためかもしれませんね? 例えば、何をすべきか、なぜそれをするのか、それがどのように役立つのかという知識がなければ、そのエクササイズは、その人とその人が抱える問題には関係がなくなってしまいますね? 私の失敗の多くは(プロとしての)、相手と治療哲学の点で一致しなかったことが原因だったと思います。私のビジョンと相手のビジョンが一致しないのは、私が、何を、なぜ、どのように、を‘教育’することができなかった、または失敗していたからかもしれません。 まとめ 教育 は治療です。 実際はどのような意味があるのか? たいていの人は常にセラピストからの情報を求めています。 教師のスタイルではなく、人中心で考えましょう。 何であるか?回復にどのぐらいの期間かかるのか?何ができるのか? 相手が知りたいことを見つけましょう。 状況に応じた情報を応用しましょう。

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エビデンスに基づいた臨床 - 好きですか、嫌いですか? パート1/2

最近、エビデンスに基づいた臨床(EBP)に対する反発があるようですが、その問題の一つは、エビデンスに基づいた臨床とは何か、そうでないものは何かについて、実際かなり大きな誤解があるのからはないかと私は考えています。 この反発は、EBPがあまりにも限定的で、すべてに答えを見出せないという考えと、自分たちの実践において“エビデンス”をあまりにも重視しすぎてしまうこともできるという考えを中心に展開しているようです。おそらく十分な批判的評価がなされず、厳格で柔軟性に欠けた視点になっているのでしょう。私の意見では、過度な経験的見解は、EBPがすべての疑問に答えを提供してくれず必ずしも100%正しいわけではない、という理由でEBPを単に拒否するのと同じくらい問題があると認識する必要があります。 ですから、EBPをよりよく理解する必要があるのではないでしょうか? ‘エビデンスに基づく’ということで、何が‘効果的’で何が‘効果的でない’のかについて確信が持てるようになるわけではありません。個体間で一貫した結果をもたらす厳格なプロトコルということでもありません。誰かの意見や経験だけではなく、科学的なプロセスに基づいて、詳細な情報を得た上で意思決定をする方法なのです。 明らかになってきたこととして、このようなトピック(ここではEBP)がセラピストの業界で話し合われる際、二者択一的で部族主義的なアプローチになっているということがあります。あなたはエビデンに基づいたセラピストですか?あなたはマニュアル(手技)セラピストですか?あなたはエクササイズを主に行うセラピストですか?痛みの科学を追求するセラピストですか?このようにレッテルを貼ることが他者を一般化し、非難するために使われているようです。 EBP(エビデンスに基づいた臨床)とBPS(生物心理社会モデル) もしかしたら、ただもしかしたらですが、この議論はEBPについてではなく、EBPがどのように使われているかということなのかもしれませんね。EBPは、Sackettが提案したような“賢明な”方法で使用されなければ、かなり鈍いツールとなります。EBPは生物心理社会モデル(BPS)に似ていて、ステップバイステップ(段階を追って)で実行する方法というよりも、哲学や考え方のようなものなのです。 EBPとBPSの両方とも、従来の臨床的な方法/モデルよりもはるかに概念的で広範であり、それは素晴らしいことでもあれば、困ることかもしれず、臨床の応用性を明確に提供しないことがしばしば批判されています。私が思うに、EBPとBPSの両方のアプローチの最大の欠点は、臨床的な意思決定を正当化するためにある領域だけを意図的に選択してしまうことです。EBPの3つの領域、すなわち研究データ、臨床経験、患者の意向は、3つが揃って使われるべきで、3分され臨床上の決定を支持したり正当化したりするためではありません。Housmanは、統計学の利用について、彼の有名な格言で指摘しています。 “酔っぱらいが灯りを求めるためでなく、体を支えるために街灯にしがみつくように統計学を使う人がいる” EBPの基準を満たすために患者の意向を利用することは、EBPがこのように変容してしまった良い例です。患者の意向は、単にどのような介入を受けるべきということだけではありません。患者が関わる必要のありえる判断は、介入以外にもたくさんあります。“患者が鍼治療を希望したので(単に一例として)、鍼治療を行いました”ということは、EBPの要件を満たしているため、使用する正当な理由にはなりますが、そうではなく、治療過程におけるより広い視野を伴った患者の視点という言葉を使った方がもっと適切かもしれません。 どのような課題があるのでしょうか。 EBPを好意的に受け取る一個人として、EBPに関して存在する問題や課題、そしておそらく誤解に直面することが重要です: EBPは単に明確な答えを与えてくれるものではありません エビデンスはしばしば不明確で矛盾していることがあり、臨床の成功への明確で間違いのない道筋を示すものではありません。このことは、研究のエビデンスを利用するプロセスの一環として受け入れなければなりませんね。残念ながら、これはEBPを拒否する人たちの原因の一つにもなりえるかもしれません。 出版されたからと言って、それが“真実”になるわけではありません 論文の結論に書いてあるからということで、それが非難や批評を超えて、魔法のように確固とした真実となるという考え方は、おそらくEBPの使われ方の大きな欠点でしょう。これは、セラピストが様々なソーシャルメディア上でパブメドの論文抄録をやり取りし合う事態につながるかもしれません。時には(おそらく頻繁に)その論文を読みもしないで。しかし同じように、自分の偏見に合わなければ、問題点を見つけるために徹底的に探すでしょう。 答えはしばしば望んでいるほど広範ではない もしかすると臨床医は、EBPが現時点で提供できること以上のことを望んでいるのかもしれません。例えば、本当に大きな疑問に対して、1つの論文で完璧な答えを欲しがるようなものです。よくある例としては、“エクササイズは手技療法よりも効果があるのか”という問題があります。この質問は、あまりにも範囲が広すぎるため、これまで一度も訊ねられたことがありません(私たちも欲しがっている答えかもしれませんが)。どのような状態に“働きかける”のか、“効果”をどのように測定するのか、研究対象者、エクササイズや手技療法を行う方法などを定義しなければなりません。

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エビデンスに基づいた臨床 - 好きですか、嫌いですか? パート2/2

どのような課題があるのでしょうか。(つづき) イエスかノーかの二者択一ではない もう一つの問題は、この“効果がある”という概念です。これは、フリクエンティスト・アプローチのような、仮説を受け入れるか拒否するかという考え方に由来していると思われます。簡単に言うと、2つの二者択一があるわけで、仮説を受け入れるか拒否するかで、効果があるかないかが決まるのです。 P値はこのような判断をするためにしばしば使われてきましたが、ありがたいことに、今回のような判断の目的にはあまり適していないので使われなくなってきました。P値は、仮説の正しさよりも、統計モデルの正しさについて示してくれます。統計情報は、それを生成するために使用された方法や、なぜ方法論は論文から得られた結論に大きな影響を与えるかという理由次第なのです。 データだけではない また、患者さんの話も、私たちが意思決定をする際に用いるべきエビデンスの重要な部分です。二重盲検法や無作為化法ではありませんが、私たちの助けを必要としている目の前にいる人の体験談です。患者さんの話は、患者さんの話の信頼性の低さを指摘するためによく使われる、彼らがどのような治療を受け、どれだけ成功したかということだけではないのです。 ひとつの論文ではなく数多くの文献を 腰痛を例にとると、このテーマに関するエビデンスは膨大なものになるでしょう。ですから、偏見を裏づけしてくれるようなお気に入りの論文だけでなく、上記のことも考慮する必要があります。こっちの論文がそっちの論文に勝るというのは、トップ・トランプのゲームのようなもので、EBPの本来の活用の仕方ではありません。 前へ進もう EBPを受け入れるか否かを決める前に、EBPとは何か、EBPは何を教えてくれるのかについて、自分なりの考えをまとめておく必要があるかもしれません。この分野における自分なりのアプローチや哲学は何でしょうか?おそらく、この分野や他の分野に関する個人の哲学は、時間をかけて自分自身の哲学を確立するというよりかは、他の人の哲学に影響されることが多いのではないでしょうか? 私の見解は?そうですね、EBPは、目の前の患者さんに対して確固たる答えを与えてくれるわけではありません。2週間後、6週間後、12週間後に何が起こるかを正確に予測することはできませんし、多くの場合、なぜ起こったのかという理由を正確に教えてくれるわけではありません。制御できないことや測定できない事はたくさんあります。しかし、より広い集団レベルで偏りの少ない方法であれば、問題に関する確率や見解を理解するのに役立ちます。自分の患者が反映されていそうなサンプリングが行われ、適切な方法が用いられていれば、何が最も起こりやすいかという予測やパラメータを得ることができるはずです。 統計学者がフィッシャースタイルの仮説検定から、信頼区間を重視した効果推定に移行しつつあるように見えるのは、まさにこのためです。また、私たち人間として当然持っている先入観をある程度制御するのに役立ちます!無作為化や盲検化などは、研究手法の批判として非常に無遠慮に適用されることがありますが、メリットもあります。 EBPが完璧でなく、またすべての答えを提供していないからといって、単純に否定されるべきではありません。それはまさに私たちをここまで導いてきた二者択一的なアプローチであり、EBPを受け入れるか否かは、答えではありません。もし、私たちがアプローチ方法や介入を試す立場でなかったら?と想像してみてください。リハビリの無法地帯になるでしょう。要は、EBPの本質とそこで問われているテーマに関する現在把握できる最良のデータを理解することを含んだエビデンスの賢明な使用に尽きるのです。エビデンスは、多くの場合、私たちに何をすべきかを正確に教えてくれないかもしれませんが、その価値は、何をすべきでないかを教えてくれることにあり、私はこのことに大きな価値があると考えています。 確実性ではなく見込み つまり、研究をベースにすることは、私に意思決定の出発点と絞り込みの方法を教えてくれます。研究を単に拒否してしまえば、理想的なヘルスケアとは決して言えない多くのでたらめなものに置き換えられてしまうのです。EBPはすべてに答えてはくれませんが、私が理解するにそもそもそういうものなのです。 私たちは、セラピーを、研究論文で予測されるような確定されたプロセスではなく、情報に基づいた試行錯誤であると捉える必要があります。研究は情報に基づいた部分であり、応用や結果はもう少し流動的で試行錯誤の部分が多いのです。 結論 このような議論では妥協点に落ち着くあたりに真実が存在するのかもしれません。研究やエビデンスを受け入れ過ぎたり、頼り過ぎたりすると、研究とは何かという大事な点を見失ってしまいます。しかし、完璧ではないという理由で研究を否定したり、効果がないと“証明”されていることが有効であるといった対極的な立場は、前進ではなく、むしろ後退することになってしまうのではないでしょうか。そうではなく、研究が何をもたらし、何をもたらさないかをよく理解した上で、研究を賢く利用することに立ち戻ろうではありませんか。

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「休息をとる」&「活動を維持する」と言うアドバイスが両方とも少し的外れかもしれない理由

以前は、ベッドレストは腰痛の治療の重要な一部であり、実際に多くの人がいまだにそうだと信じています!今はガイドラインとなるアドバイスは「活動を維持する」であり、休息は古い考え方で、一部の臨床医にとっては「悪い」ものでさえあるように思えます。 筋骨格系の痛みや怪我の分野は、非常に速く二極化することがありえます。もし、あるものが優れていないとなれば、それがそうではなくとも、すぐに劣っているということになってしまいます。例として体幹の安定性のエクササイズのことを考えると、それは筋骨格系の断崖から奈落へと落ちて行ってはしまいましたが、それについての注釈が無意味であったとしても、依然として他の腰痛を治療する方法と同じように効果があるものです。 そのため、休息をとることと活動を維持するというアドバイスは共に、おそらく一概的に決めつけた発言のように少し価値のないものかもしれません。臨床医の役割の一つは、人々が自身の痛みをより深く理解し、そしてうまく管理することを助けることであるべきです:この人の個々の症状や制限は何か?同じように分類されたとしても、全ての腰痛が同じではありません。これは、もちろん新事実でもなければ、特に新らしい情報ではなく、Maitlandによる「悪化要因」は今でも痛みの問題を理解し、また人々に自身の痛みの問題を理解させるための重要な要素です。 このような実際に問題を悪化させるものを明確にすることで、私たちは、それらからはもう少し休息とり、一方で問題をそれほど悪化させることのない他のことにおいては活動を維持することができるかもしれません。これは、本来は私の思う基本的な常識以上のことではないのですが、多くの人々がしっかりとした分析なしに休息をとるか、または痛みのあることをやり続けるよう言われていることを考えると、この常識は時折欠如しているのかもしれません。 例 例として、私は最近、ジムのセッション後の夜に悪化する坐骨神経痛の痛みのひどい人を受け持ちました。明らかに、これを続けることは問題であり、ある程度の休息は理にかなっているように思えました、少なくとも私には。より大きな問題の一つは、心理的な対処の観点からは、完全な休息は本当の選択肢ではないことであり、これは一部の非常に活動的な人たちにとってはそうなりえるものです。ここでは、悪化させないように強度とボリュームのレベルを下げるという目標を絞った方法が役に立ち、一方でその人に運動も続けさせ、(適度に)満足させます。時には、頑固/永続的な習慣は非常に根深く、これは完全な休息を基本とした方法に対して難しいものになるでしょう。 ガイダンス もしかしたら、ここがガイダンスの必要とされるところであり、悪化するものを監視して順応させるためのツールを人々に与えることで、問題に対処するための彼らの能力(そして自身に対する自信)に大きな影響を与えることができます。繰り返しになりますが、これは新しいことではなく、90年代のIndahlの文献まで振り返ると、問題や痛みに対処することについての基本的な情報は、彼のグループのアプローチの主要な柱であったことがわかります。 さて、もし痛みが多くの様々な活動において本当に悪いものであれば、最大の痛みが引くまで待つ(一般的にはそうなるでしょう)ために数日間の完全な休息をとることは、私は全く間違っているとは思わず、また同様に、もし痛みが非常に弱い、または特定の運動でしか現れないのであれば完全な休養を取る特段の必要性はないと考えます。実際の微妙な違いは、その中間にある痛みの症状の大半にあります。制限したり今後悪化したりするに十分な痛みがあるが、代償が伴うこともある完全な休息をとる根拠とするにはおそらく十分なものではないのです。 私は非常にシンプルな「視覚的アナログスケール(VAS)」を用いた採点のスケールを使用しますが、問題の過敏性も考慮すべきもう一つの要因です。願わくは、身体活動介入のU字の特性を考慮してほしいものです。 シンプルなスケール(VAS) 8-10-休息 4-7-活動の変更 1-3-活動の維持 活動を変更するための私たちの医学的な理由づけのために自身に問いかけたいいくつかの質問があります: 全く違うことをしてもよいか? ボリュームを変えられるか? 強度をかえられるか? 頻度を変えられるか? これによってどのような影響があるか? 将来的な回避行動の可能性を作り出すことを避けるために、痛みが変化するにつれて元の活動への復帰を必ず段階的にすることも非常に重要です。何かをすることを止めるように言われ、二度とそれを再開しなかった人達がどれほど多くいるでしょうか?私の経験ではかなり多いのです。 キーポイント 一概的に決めつけるようなアドバイスは少しばかげている 優れていないということは劣っているということではない 基本的な痛みの管理のアドバイスは役に立つ 悪化させる運動にいかに順応/調整できるか?

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もし10回中9回がくだらない介入なら、一体私は何をすればいいのか?

衝撃的なタイトルであることは分かっていますが、何を期待したんですか、ソーシャルメディア向けでなんですから。 しかし、最近発表された、ヘルスケアにおける多くのトリートメントの有効性に関するこのような論文を読むと、かなり気が滅入ります。10個中9個は、質の高いエビデンスに裏付けられていません*ここから*。 驚くべき結果を示さない研究は山ほどあり、多くの介入は11点満点で1~2点という臨床上重要な最小限の差異(MCID)の閾値に達していません(比較対象によって異なる)。痛みはとらえどころのない生き物であるという事実は言うまでもありませんが、ライフスタイル、遺伝、健康の社会的決定要因、合併症、症状の自然経過など、患者や治療者がコントロールできないことがたくさんあるため、私にとって、これは驚くべきことではありません。 しかし、落ち込みすぎる前に、人々は良くなるということを覚えておくことも重要です*ここから*。それを自分自身のブランドの魔法であると勘違いする人もいますが*ここから*。私たちが使う特定の介入が彼らを良くするするわけではないこともあります。 では、もし私たちがエビデンスベースであるならば、今何をすべきなのでしょうか?もちろん、効果のない介入の鬱の海へとスパイラルすることも一つの選択肢ですが、それは少しの間であっても推奨されるものではありません。 数年前(大昔)、ヴォルテールが雄弁に我々に語ったように・・・。 「医術とは、自然が病気を治す間に、患者を楽しませることから成る」 もし私がこの格言を21世紀風にアップデートするなら、医術とは、それほど楽しいことというのではなく、より理解すること、理に適っていること、問題を増幅させることが多い心配事と不安を減らすことである*ここから*。 ここではっきり申し上げておきたいのは、要点は現在の研究成果を凌駕する代替治療法の涅槃としてこれを提供することではありません(「データを示せ!」という声が聞こえます)。実際に現在ある研究基盤の中で活動し、大きな効果をもたらす治療法がないことを受け入れることです。私の経験において、治療家(そして人)であるということは、ほぼ受け入れるということなのです。 このことは私にとって、痛みの問題を抱えた人々と仕事をすることの過小評価された部分であると思います。私達はどのようにそれを計測、あるいは定量化するのでしょうか?はっきりとはわかりません(このことは私以上に聡明である誰かにお任せします)。必要でしょうか?あなたの見方次第でしょう。結果が改善されなくてもそれをすべきでしょうか?そう思います。BPSモデルの一部分は、定量化されているすべてのものから距離をとること、あるいは、小さな箱に入れてしまうことです。 この最近の論文では、腰痛を持っている人はその問題についてより理解したいということを明確に指摘しています*ここから*。 どうすればいいでしょうか? まず最初に、この問題を治療家が理解していることは大いに役立ちます。そうすれば、我々の周りの多くの筋骨格系問題に存在する、すべてのくだらないナンセンスを整理することができます。例えば、「筋肉が活性化されていない」、あるいは、「この筋肉が硬い」、あるいは、「骨のアライメント異常」(おそらく毎日聞いていることなので、私がここでお伝えする必要はないのですが)。腰痛は文字通りがらくたとたわごとのパンデミックです。まず初めにあなたが問題を理解していなければ、クライアント/患者がこれを解決することはできません。そして問題を悪化させないことは大きな価値があるのです。 問題を理解することを助けてくれる正確で現実的な情報を与えることは、私にとって大事なことであり、人々を助ける主要な部分になります。最後の言葉が重要です。痛みのみではなく、人間です。始めに痛みがいかにつかみどころがないかについて議論したことを思い出してください(そして、それは科学的根拠に基づいています)。 ただ単に問題について理解して、至るところで人々に「教育」と吐き捨てるのではなく、相手を心配させているものが何で、何をもっと知りたがっているのかを理解することが大切なのです。例えば、相手が何を心配しているか分からずに、どのように相手を安心させることができますか?確かに人に情報を一方的に押し付けて効果があることを望むこともできるでしょうが、問うこともできたのです! これは、私たちが(可能な限り)つながり、オープンで正直な対話の場を作ることに価値を見出すことができれば、本当にすべてが改善されるのです。これは、特に介入がまだ十分でない場合、人と仕事をする上で本当に特効薬です。 適用されるトリートメントは、私や他の人が提供する価値の一部に過ぎないと考えるようになりました。特に、有効性に関するデータを考慮した場合。たとえ痛みや障害などの結果に大きな影響を及ぼさなくても、相互作用、コミュニケーション、理解するというプロセスは、同じくらい重要だと考えるべきです(もちろん、私の意見ですが)。

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治療に関する議論が嫌いな理由

私がネットで見る、あるいは関わるのが最も嫌いな議論は、治療に関するものです。治療が大事なのはわかりますが、これは本当にセラピストの間で最大の争点になっているようです。このテーマは、確かに人々が非常に熱くなり、あえて言うなら、少し身構えているような気もします。これは、議論、あるいは議論になりがちな不確実性の大きな領域です。議論の展開によっては、「何もかも」うまくいかないように思えたり、「何でもかんでも」うまくいくように思えたりして、少し不満や失望を感じることがあるでしょう。 しかし、ここからが私の問題なのです... 私が本当に不思議に思うのは、なぜ人は、問題を抱えた人をどう扱うのかではなく、問題をどう扱うかに熱狂し、アイデンティティを形成してしまうのか、ということです。これらの論議は、クライアントとのセッション中に起こる他のすべてのことを考慮しているようには決してみえません。もし、あなたが治療によって自分を定義し、それが「うまくいかない」としたら、そしてそれはかなりの割合の人にとってそうだとすれば、それから一体どうするのでしょうか? 私としては、これこそが、誤用されがちなBPS(Biopsychosocial/生物心理社会的)モデルのポイントだと考えています。BPSモデルは、問題そのものよりも、問題を抱えた人について考えることを意図しています/していました。 私は痛みを治療するのではなく、痛みを持つ人を治療するのです。それは、痛みがその人の人生や感じ方に大きな影響を与えることを認識すること、つまり、彼らの身に起きていることすべてに対する考えや気持ちを理解することです。それは、私がどのような介入、治療、モダリティなどを使って痛み(またはその他の結果指標)を治療するかということではなく、治療の全プロセスをどのように進めるかということなのです。 これは、もう少しリサーチ・リテラシーを高めるための良い理由になるかもしれません。治療のエビデンスをめぐっては、多くの大きな意見があり、実際に何がどの程度効果があるのか、そして更に重要なことに何が実際に効果があるのか、に関するバランスのとれた見解を得ることは難しいかもしれません。また、臨床で起こることと、コントロールされた研究で集団レベルで起こることは異なるかもしれないということも覚えておく必要があります。これは、研究を臨床に取り入れる際に常に問題となることです。私の臨床実践では、エビデンスを指針にしながらも、必要に応じて変化し、その人に合わせていくようにしています。 医療との出会いの中で、人々が経験するプロセスを考えたとき、アウトカムには実にさまざまなものが関わっているはずです。 それらは下記のようなものかもしれません: アセスメント(病歴&身体所見) コミュニケーションスタイル 私たちの説明と安心感 私たちが提供するサポートとガイダンス 行動変容の実施 治療はセッションのほんの一部に過ぎないことが多く(私にとっては)、これら他のことの全ては、頻繁に治療の寄せ集めの中に関与し、結果に影響を与える可能性があるのです。 実際、私たちがコントロールすることのできない多くのことが結果に影響するため、結果のうちどれだけが実際に私の治療なのかは、よくわからないことが多いのです。私たちに影響を与えるものの多くは、私たちが存在するシステムや社会に根ざしているのです。特定の治療法の結果にこだわるのではなく、私たちがコントロールできること、例えば、その人とどのようなプロセスを経て、どのような働きかけをするかということに、もっと関心を持つべきかもしれません。私は、適用されるものが何であれ、盲信するよりも、その方がずっと安心です。 ある人は健康状態を、ある人は手技を、ある人は基本的な安心感を、またある人は自分の動きに自信を取り戻すことを、あるいは上記のすべてを組み合わせて必要とするかもしれません。痛みの複雑さや人々の個体差を考えれば、なぜすべての人がたった一つのものを必要とすると期待できるでしょうか?

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