マイクロラーニング
隙間時間に少しずつビデオや記事で学べるマイクロラーニング。クイズに答えてポイントとコインを獲得すれば理解も深まります。
エビデンスに基づいた臨床 - 好きですか、嫌いですか? パート2/2
どのような課題があるのでしょうか。(つづき) イエスかノーかの二者択一ではない もう一つの問題は、この“効果がある”という概念です。これは、フリクエンティスト・アプローチのような、仮説を受け入れるか拒否するかという考え方に由来していると思われます。簡単に言うと、2つの二者択一があるわけで、仮説を受け入れるか拒否するかで、効果があるかないかが決まるのです。 P値はこのような判断をするためにしばしば使われてきましたが、ありがたいことに、今回のような判断の目的にはあまり適していないので使われなくなってきました。P値は、仮説の正しさよりも、統計モデルの正しさについて示してくれます。統計情報は、それを生成するために使用された方法や、なぜ方法論は論文から得られた結論に大きな影響を与えるかという理由次第なのです。 データだけではない また、患者さんの話も、私たちが意思決定をする際に用いるべきエビデンスの重要な部分です。二重盲検法や無作為化法ではありませんが、私たちの助けを必要としている目の前にいる人の体験談です。患者さんの話は、患者さんの話の信頼性の低さを指摘するためによく使われる、彼らがどのような治療を受け、どれだけ成功したかということだけではないのです。 ひとつの論文ではなく数多くの文献を 腰痛を例にとると、このテーマに関するエビデンスは膨大なものになるでしょう。ですから、偏見を裏づけしてくれるようなお気に入りの論文だけでなく、上記のことも考慮する必要があります。こっちの論文がそっちの論文に勝るというのは、トップ・トランプのゲームのようなもので、EBPの本来の活用の仕方ではありません。 前へ進もう EBPを受け入れるか否かを決める前に、EBPとは何か、EBPは何を教えてくれるのかについて、自分なりの考えをまとめておく必要があるかもしれません。この分野における自分なりのアプローチや哲学は何でしょうか?おそらく、この分野や他の分野に関する個人の哲学は、時間をかけて自分自身の哲学を確立するというよりかは、他の人の哲学に影響されることが多いのではないでしょうか? 私の見解は?そうですね、EBPは、目の前の患者さんに対して確固たる答えを与えてくれるわけではありません。2週間後、6週間後、12週間後に何が起こるかを正確に予測することはできませんし、多くの場合、なぜ起こったのかという理由を正確に教えてくれるわけではありません。制御できないことや測定できない事はたくさんあります。しかし、より広い集団レベルで偏りの少ない方法であれば、問題に関する確率や見解を理解するのに役立ちます。自分の患者が反映されていそうなサンプリングが行われ、適切な方法が用いられていれば、何が最も起こりやすいかという予測やパラメータを得ることができるはずです。 統計学者がフィッシャースタイルの仮説検定から、信頼区間を重視した効果推定に移行しつつあるように見えるのは、まさにこのためです。また、私たち人間として当然持っている先入観をある程度制御するのに役立ちます!無作為化や盲検化などは、研究手法の批判として非常に無遠慮に適用されることがありますが、メリットもあります。 EBPが完璧でなく、またすべての答えを提供していないからといって、単純に否定されるべきではありません。それはまさに私たちをここまで導いてきた二者択一的なアプローチであり、EBPを受け入れるか否かは、答えではありません。もし、私たちがアプローチ方法や介入を試す立場でなかったら?と想像してみてください。リハビリの無法地帯になるでしょう。要は、EBPの本質とそこで問われているテーマに関する現在把握できる最良のデータを理解することを含んだエビデンスの賢明な使用に尽きるのです。エビデンスは、多くの場合、私たちに何をすべきかを正確に教えてくれないかもしれませんが、その価値は、何をすべきでないかを教えてくれることにあり、私はこのことに大きな価値があると考えています。 確実性ではなく見込み つまり、研究をベースにすることは、私に意思決定の出発点と絞り込みの方法を教えてくれます。研究を単に拒否してしまえば、理想的なヘルスケアとは決して言えない多くのでたらめなものに置き換えられてしまうのです。EBPはすべてに答えてはくれませんが、私が理解するにそもそもそういうものなのです。 私たちは、セラピーを、研究論文で予測されるような確定されたプロセスではなく、情報に基づいた試行錯誤であると捉える必要があります。研究は情報に基づいた部分であり、応用や結果はもう少し流動的で試行錯誤の部分が多いのです。 結論 このような議論では妥協点に落ち着くあたりに真実が存在するのかもしれません。研究やエビデンスを受け入れ過ぎたり、頼り過ぎたりすると、研究とは何かという大事な点を見失ってしまいます。しかし、完璧ではないという理由で研究を否定したり、効果がないと“証明”されていることが有効であるといった対極的な立場は、前進ではなく、むしろ後退することになってしまうのではないでしょうか。そうではなく、研究が何をもたらし、何をもたらさないかをよく理解した上で、研究を賢く利用することに立ち戻ろうではありませんか。
エビデンスに基づいた臨床 - 好きですか、嫌いですか? パート1/2
最近、エビデンスに基づいた臨床(EBP)に対する反発があるようですが、その問題の一つは、エビデンスに基づいた臨床とは何か、そうでないものは何かについて、実際かなり大きな誤解があるのからはないかと私は考えています。 この反発は、EBPがあまりにも限定的で、すべてに答えを見出せないという考えと、自分たちの実践において“エビデンス”をあまりにも重視しすぎてしまうこともできるという考えを中心に展開しているようです。おそらく十分な批判的評価がなされず、厳格で柔軟性に欠けた視点になっているのでしょう。私の意見では、過度な経験的見解は、EBPがすべての疑問に答えを提供してくれず必ずしも100%正しいわけではない、という理由でEBPを単に拒否するのと同じくらい問題があると認識する必要があります。 ですから、EBPをよりよく理解する必要があるのではないでしょうか? ‘エビデンスに基づく’ということで、何が‘効果的’で何が‘効果的でない’のかについて確信が持てるようになるわけではありません。個体間で一貫した結果をもたらす厳格なプロトコルということでもありません。誰かの意見や経験だけではなく、科学的なプロセスに基づいて、詳細な情報を得た上で意思決定をする方法なのです。 明らかになってきたこととして、このようなトピック(ここではEBP)がセラピストの業界で話し合われる際、二者択一的で部族主義的なアプローチになっているということがあります。あなたはエビデンに基づいたセラピストですか?あなたはマニュアル(手技)セラピストですか?あなたはエクササイズを主に行うセラピストですか?痛みの科学を追求するセラピストですか?このようにレッテルを貼ることが他者を一般化し、非難するために使われているようです。 EBP(エビデンスに基づいた臨床)とBPS(生物心理社会モデル) もしかしたら、ただもしかしたらですが、この議論はEBPについてではなく、EBPがどのように使われているかということなのかもしれませんね。EBPは、Sackettが提案したような“賢明な”方法で使用されなければ、かなり鈍いツールとなります。EBPは生物心理社会モデル(BPS)に似ていて、ステップバイステップ(段階を追って)で実行する方法というよりも、哲学や考え方のようなものなのです。 EBPとBPSの両方とも、従来の臨床的な方法/モデルよりもはるかに概念的で広範であり、それは素晴らしいことでもあれば、困ることかもしれず、臨床の応用性を明確に提供しないことがしばしば批判されています。私が思うに、EBPとBPSの両方のアプローチの最大の欠点は、臨床的な意思決定を正当化するためにある領域だけを意図的に選択してしまうことです。EBPの3つの領域、すなわち研究データ、臨床経験、患者の意向は、3つが揃って使われるべきで、3分され臨床上の決定を支持したり正当化したりするためではありません。Housmanは、統計学の利用について、彼の有名な格言で指摘しています。 “酔っぱらいが灯りを求めるためでなく、体を支えるために街灯にしがみつくように統計学を使う人がいる” EBPの基準を満たすために患者の意向を利用することは、EBPがこのように変容してしまった良い例です。患者の意向は、単にどのような介入を受けるべきということだけではありません。患者が関わる必要のありえる判断は、介入以外にもたくさんあります。“患者が鍼治療を希望したので(単に一例として)、鍼治療を行いました”ということは、EBPの要件を満たしているため、使用する正当な理由にはなりますが、そうではなく、治療過程におけるより広い視野を伴った患者の視点という言葉を使った方がもっと適切かもしれません。 どのような課題があるのでしょうか。 EBPを好意的に受け取る一個人として、EBPに関して存在する問題や課題、そしておそらく誤解に直面することが重要です: EBPは単に明確な答えを与えてくれるものではありません エビデンスはしばしば不明確で矛盾していることがあり、臨床の成功への明確で間違いのない道筋を示すものではありません。このことは、研究のエビデンスを利用するプロセスの一環として受け入れなければなりませんね。残念ながら、これはEBPを拒否する人たちの原因の一つにもなりえるかもしれません。 出版されたからと言って、それが“真実”になるわけではありません 論文の結論に書いてあるからということで、それが非難や批評を超えて、魔法のように確固とした真実となるという考え方は、おそらくEBPの使われ方の大きな欠点でしょう。これは、セラピストが様々なソーシャルメディア上でパブメドの論文抄録をやり取りし合う事態につながるかもしれません。時には(おそらく頻繁に)その論文を読みもしないで。しかし同じように、自分の偏見に合わなければ、問題点を見つけるために徹底的に探すでしょう。 答えはしばしば望んでいるほど広範ではない もしかすると臨床医は、EBPが現時点で提供できること以上のことを望んでいるのかもしれません。例えば、本当に大きな疑問に対して、1つの論文で完璧な答えを欲しがるようなものです。よくある例としては、“エクササイズは手技療法よりも効果があるのか”という問題があります。この質問は、あまりにも範囲が広すぎるため、これまで一度も訊ねられたことがありません(私たちも欲しがっている答えかもしれませんが)。どのような状態に“働きかける”のか、“効果”をどのように測定するのか、研究対象者、エクササイズや手技療法を行う方法などを定義しなければなりません。
動作に基づいたアプローチを用いる際に、私が犯した10個の間違い
1. 動く方法が一つしかないと考えること。 以前に私は、‘正しい’運動に関して魔法のような青写真を持っていましたが、事例に基づいた運動のデータに着目すればするほど、(今では退屈な趣味の一つですが)私達すべてが異なる動き方をするということを認識するようになりました。 運動に関する研究はしばしば、異なる対象者から得たデータや同じ対象者から得た同じ運動の多重反復を平均化してしまいます。これは、個体それぞれが一般的に非常に異なる運動をするということを隠し、特に周期運動中に、同一個体がある運動を反復する度に、異なる運動をするということをも隠してしまいます。Bernsteinは、これを“反復なき反復”として雄弁に述べています。 ほとんど実証されていないデータによる‘正しい’運動の理論的モデルは数多くありますが、それらはすべて正しいのでしょうか?何が‘正しい’のかに関する数多くの異なるモデルがあるということは、唯一の正しい方法など無いということを本質的に示しているのかもしれません。 異なる生体構造と異なる運動経験を持っているにもかかわらず、なぜ私達全てが同じ動きをすべきなのでしょうか?私の考えでは、私達がそうすべきで、そうするであろうと期待することは狂気の沙汰だと思います。 2. その一つの動く方法を定義してしまっている。 もしあなたが、誰かが十分な論理的根拠なしに‘最適’、‘標準的’、もしくは‘効率的’な運動を提案することに対してうれしく思うのであれば、もちろん、それはご自由に。かつて、それは私にとってうれしい事でしたが、今はそれほどではなく、これは信頼できる確かなデータという観点から、何を必要とするかによって決まるのかもしれません。 ソーシャルメディアで読んだ私の最近のお気に入りの一つは、“90%の人達は、Xを間違った方法で行っている”です(罪のある人を保護するために、そこに掲載されている内容は省略します)。もしこれが真実であったならば、その実験は恐らく間違っていたでしょう。ほとんどの人達がXをある特定の方法で行ったのであれば、恐らく、それはただ正常であるということです! 現代的な運動データや着想に基づいた運動理論は、厳しい基準に基づいたモデルというよりもむしろ、かなりの正常変動において‘最適’と考えられるものに関して、幅広いパラメーターを定義する傾向があります。 動作はしばしば、疲労時や痛みを伴う際に変化し、‘最適’を定義することをさらに困難にします。 3. 最適な’運動からの逸脱が痛みを引き起こすと考えること。 これも、しばしばうたわれているのを目にしますが、それを支持するデータはほとんどありません。‘’は、‘’を損傷することからの典型的な例です。これを示唆するデータがありますか?損傷が起きていることを示唆する炎症マーカーのような兆候はありますか?私は、特定の定義された‘マイクロムーブメント’は‘マイクロトラウマ’の尺度に関連していることを強調しているいかなる証拠をも進んで取り入れます。 もし私達が、身体が適合できるマクロムーブメントを持っているならば、なぜマイクロムーブメントがそんなに問題なのでしょうか? また、あなたはいったいどうやってそれを知るというのですか?私達はしばしば、人々の運動を痛みが発生した後にだけみる為、痛みが発生する前にどんな運動なのかはわからないのです。 4. 痛みは単一の運動障害に起因する。 可能性としては、そうではありません。私達は、想像できる最善の方法で動くことができるかもしれませんが、やりすぎるかもしれませんし、早過ぎるかもしれません。身体に加えられた外部負荷や速度は、‘誤った’運動から発生する内部負荷よりも一層重要かもしれません。それと同時に、その反対も当てはまるかもしれません。 痛みは多因子的なため、運動の‘問題’が人の痛みの唯一の原因であるというアイデアを否定しなければならないのです。 5. 望ましい結果を‘正しい’動き方を実現することで手に入れること。 あなたがこれまでにクライアントに対してしてきたことの詳細とは無関係で、気分が良くなるかもしれない多くの理由があります。 彼等はあなたのことを信頼しているから。 彼等はあなたのことが気に入っているから。 彼等はあなたに話を聞いてもらっていると感じているから。 彼等は関連のある手助けを得ているから。 彼等は単に動くようになったから。 彼等は耐えられる範囲で動いているから。 彼等は今までにない新しい入力を得ているから。 時間を費やしてきたから。 実際、それが何であれ、入力を変化させれば、痛みの出力に影響を及ぼすかもしれません。期待と状況もまた、人の経験を大きく変化させるかもしれません。 6. 体内で起こっていることを知っていると考えること。 ある人達は‘正しい’筋肉の発火パターンを得ること、またある人達は正しい関節運動学と姿勢を、私は正しい生体力学的反応を。もし誰かが向上したとすれば、それは私がそれらを変えたからです! 実際には、実験室設備無しに体内で何が起こっているのかを知る方法は無く、99%の人達は彼らの日常の労働環境の中で、実験室設備へのアクセスがありません。そのようなことを定義しようと試みることは、捉えどころのないことだと証明されていて、また、研究の際に、変化はしばしば望ましい結果とは関係がありません。 7. 動くことを理解しないことは、その動きよりもより重要かもしれない。 私達は本当に、人々の気分が良くなることが、彼等の運動の変化における実際の変化に起因すると考えることができるでしょうか?全員が変化の前と後での違いを計測しているでしょうか?私達の計測は本当に信頼性があるでしょうか?それが問題なのでしょうか? これは、少し‘強化’に似ています。私達はしばしば、人々が以前にどのくらい強かったか、いかなる治療効果が筋力における実際の変化に起因しているのかを知りません。それはただ、痛みが弱まるにつれて、人々は強さと動きを取り戻すだけなのかもしれません。 人々を動かせることは、実際に恒久的に運動出力を以前の疼痛レベルから変化させるというよりもむしろ、動くことにより脳に入力を提供し、抑制を減少させる、あるいは局部的な生理学的効果を作り出すということかもしれません。私達はただ知らないだけなのです。 そして、筋力や柔軟性の向上などを目的としたエクササイズとは無関係なエクササイズを用いることで腰痛が軽減したことを示唆する証拠があります。 8. 運動の問題を発見する必要性。 私は、問題を見つけられないと、俳優のStan Laurelのように、よく自分の頭を掻いていました。そして今、私は、特に誰かの運動がかなり良い場合に、運動‘テスト’が、プラス面を強調したり、以前の考えを打破するために使用されることもできると認識しています。 もし私の運動に‘欠陥’があり、更なる損害と痛みを引き起こすかもしれないと考えるならば、私はただ動かなくなるでしょうし、特に英知を理解していると思われる人がそう言うのであれば尚更です。これは、私の運動に対する許容範囲のレベルが落ちて、私自身が体調不良で傷つきやすくなるということを意味しているのかもしれません。Louis Giffordが私達に思い出させてくれるように、安心させることは強力な鎮痛剤であり、うまくいけば活動誘導剤にもなるのです。 “あなたは非常にうまく動いています。ただもう少しだけ行う必要があるかもしれません”というように、前向きに運動を捉えることは、人がどのように運動の行為と運動量を知覚することに多大な影響を与えるかもしれません。また、エクササイズに基づくパラダイムから活動に基づいたパラダイムへの移行は、特に人々がエクササイズに好ましくない関係性を持つ場合や、エクササイズを間違って行う可能性が更なる損害を引き起こす場合にも有益かもしれません。 9. 運動の心理的影響を無視すること。 これには大きな影響力があります! どのように私達が運動、あるいは特定の身体部位から動かすことを知覚するのかは、どのように私達がその運動を実現するのかという現実より重要かもしれません。特に、それが動くことを辞めることになるきっかけであったとすれば尚更!思い込みと実際の結果との間にある違いを強調することは、考えを変えるのに極めて重要で、もし私達が 運動経験を通して身体的にそうすることができるのであれば、さらにいっそう強力です。 人々が彼等の問題に対して運動/動くこと/エクササイズの関連性を理解する手助けをすることはまた、実際に彼等にそれを実行させる大きな手助けにもなりますし、もしこれがあなたの運動における介入の大部分ならば、更なる身体的影響から恩恵を受けるでしょう。 10. 運動トレーニングは、厳格で‘正しい’必要がある。 誰かの運動のマイクロマネジメントを通して、適切なフォームを獲得すること、あるいは適切な組織や構造をターゲットとすることはしばしば、‘動き’に焦点を合わせたものに必要不可欠な要素です。 私のこれまでの9個の間違いに注目すれば、動きを用いること、特に治療的に用いるには、変化に富んでいて、楽しいもので、いくらか関連性があるべきだと理解させてくれることでしょう。
腰痛のためのエクササイズは意外な効果が!
腰痛のためのエクササイズは、総じてヘルスケア全般にわたって、かなり問題のある事柄において、ある程度有益のように見えます。メタ分析を含む最近の系統的レビューは、ほぼ全ての種類のエクササイズにおいて、有益な効果を発見しました*ここをクリックしてください*。ピラティスのようないくつかの種類のエクササイズは、より秀でているともてはやされていますが、最近のコクランのレビューによれば、これは当てはまらないようです*ここをクリックしてください*。 私は、一般的な腰痛と治療的エクササイズに焦点を合わせる方法に関して、考えさせてくれた腰痛に関する二つの研究に注目したいと思います。両方ともあまり目立たなように見えますが、私見では、私達の治療的エクササイズの捉え方に対して、深遠な意味を持っていると思います。 最初に、2012年の系統的レビューを見てみましょう。 “非特異性慢性腰痛における運動療法後の有益な臨床転帰は、目標とするパフォーマンスにおける同様の向上を条件とするのか?系統的レビュー” この研究論文は、慢性腰痛における運動療法試験に着目しました。彼らは初期検索の1217報の論文から、試験対象患者基準を満たす13報の無作為化比較試験と5報の非無作為化比較試験に絞り込みました。 レビューの目的は、これらの試験に含まれている科学的根拠が、運動療法後の目標とした身体機能面で、患者の痛みの変化を立証しているかどうかを発見することでした。身体機能面は、可動性、体幹伸展と体幹屈曲の強さ、背筋の持久力に関するものでした。 研究者視点からのポイントは、その結果が目標とされた運動プログラム面と実際に結びついているか否かではなく、慢性腰痛における運動の介入が、痛み、あるいは身体障害のような、肝心な結果変数に影響を与えたかどうかという研究報告でした。 10報の研究では、痛みの変化と矢状面(屈曲と伸展)での可動性における関連性を調査しました。7報の研究は、相関関係だけではなく立証するデータがでず、3報の研究では、データとの相関関係すら見つけられませんでした。著者は、このデータのメタ分析を行い、可動性の変化と痛みの変化の間の全相関が、極めて低いことを発見しました。 9報の研究と5報の研究は、それぞれ体幹伸展と体幹屈曲の強さを調査しました。利用可能なデータでのメタ分析は、痛みの変化と強さの変化の間には、有意な相関関係がないことを示しました。 筋持久力に関しては7報の研究の中で行われ、相関関係だけでなく、特定の相関係数もありませんでした。 身体障害、強さ、可動性に関する相関関係もあまり興味深いものではありませんでした。 著者達は下記のように述べています: “私達は、入手可能な文献は、慢性腰痛における運動療法後の臨床転帰の変化と身体機能の変化の間に、納得できる関連性を立証していないようであると結論付ける“ “結果は、慢性腰痛における運動療法の治療効果が、筋骨格系の変化に直接的に起因するという考えを立証していません。慢性腰痛における運動療法の有効性の増大を目的とする今後の研究は、症状改善に影響している偶発性の要素を詳しく調査するべきです” 人々はエクササイズで改善するでしょう。私達は、運動が効果的であることを知っていますが、弱さや柔軟性の低さが腰痛の原因である、あるいはその解決に取り組むことが腰痛の問題に対する治療法であるということを意味していないのかもしれません。これらの著者達は、エクササイズの効果は、心理的、認知的、あるいは神経生理学的適応のように、‘局所的’変化というより、より‘中枢的’であるかもしれないと感じています。 これらは、運動パターンと感覚入力の変化、皮質再現、あるいは身体図式における変化、そして、療法士/患者のポジティブな相互関係を含めたのでしょう。恐怖回避や破局的行動の減少を伴ったのかもしれません。 血流量の向上や、単純により多く動くことによる人々の全体的な健康の増進、または人々の‘ホメオスタシスの領域’の細胞レベル、あるいはより中枢神経系に基づいた活動の増大といった、運動に関連する基本的な生理学的プロセスを軽視することができるとは考えていません。 もう一つの潜在的な問題は、人々に‘強くなる’必要があると言うことが、どのように彼等の能力への認識に影響を与えるのかということです。多くの人達にとって、それは彼等弱いところからスタートするという意味を含み、よって、真実かもしれないし、真実でないかもしれないリスク増大はしばしば、仮定される代わりに定量化されてしまいます。 以前に私が議論してきたように、多くの治療的エクササイズは、ほとんど筋力強化にはなりませんが、より多くの運動を伴うのです! この文献は、なぜエクササイズが有益であるのかという理由の背後にある潜在的なメカニズムをどのように見ているのかを問いかけていると思います。 次は、目標設定に関する短い文献です。 “慢性腰痛における目標設定を指導された患者−どんな目標が患者には重要で、その目標は私達が評価するものに沿っているのか?” この文献は、対象者20名のうち27名の特有な目標のうち、身体活動に関連する目標が最もよく見られる(49.2%)ものであったことを確認しています。2番目に多かった目標は、14.29%を占める職場に関連するものでした。この文献に、これらの目標が何であるかという幾つかの例を含めることで有意に裏付けされ、人々が重要だと思う機能的活動が分かったであろうと強く感じます。私はそれらが、彼等が靴ひもを結んだり、子供を迎えに行くことのような物事と関連しているのではないかと思います。これらは、強さや関節可動域(ROM)のような、より臨床的変数に関連して調査されていないかもしれないけれど、重要で、関連性があり、有意義な目標です。それらはしばしば関連性なく、単にこれらの構成要素を分離させて、単独で考えていては解決されない身体的なパフォーマンスの側面を含んでいるかもしれません。 この研究結果は、患者の目標が、理学療法士によって使用される一般的な評価基準に全く沿っていないということを発見しました。従来の評価基準は、痛み、筋力、関節可動域(ROM)でした。ここでの議論は、これらの従来の評価基準が、患者が彼らの目標を達成することを可能にする助けとなるであろうということですが、ただ、これは仮定にしか過ぎません。もしあなたが、誰かがあなたの思い通りの評価基準を達成したと感じたとしても、それは、彼等の評価基準には、あまり関連性が無いのかもしれません。 著者達は次のように述べています: “臨床転帰の評価基準は、患者にとって有意義な治療の成功についての正確な情報を提供していないかもしれない。患者の選択によって動かされる治療介入を決定するために、臨床医は慢性腰痛患者との共同アプローチを考察するべきである” 誰かが痛みをあまり経験しないように助けることは、単純かもしれません。一例として、もし彼等が前屈をすることによって腰痛があるのであれば、彼等にその動作を避けるように告げることです。成功に関するひとつの観点は、前屈において痛みが無いこと−目標達成です。もう一つの観点は、再び靴ひもを結ぶためにしゃがむことが可能になること−目標は達成できていません。痛みの評価基準の削減は、当事者から見た成功を意味するわけではないのです。人々は、痛みの無い身体障害の感覚を味わうより、より良い機能性を伴うかなりの不快感に耐えようとするのかもしれません。 これら二つの文献は、治療的エクササイズと前向きな結果の背景にあるメカニズムにおける従来の考え方に挑んでいるのだと、私は考えます。私達がメカニズムに関して、理解すればするほど、エクササイズのパラメーターをよりうまくデザインすることができるでしょう。強さ、あるいは関節可動域に関する評価基準の使用は、人々の目標に沿うものではなく、これらの評価基準の変化によって回復が左右されるわけでもありません。 恐らく、成功は従来の評価基準によって常に定量化されるわけではなく、結局のところ、結果の成功は、これらの評価基準にかかっているのではなく、治療的エクササイズが適用される人たちの認識にかかっているのです。非難されるかもしれませんが、これらの結果は私達の身体の他の部分にも適用することができるのではないかと提案しますs! 私見では、量、関連性(考えられている場合でも)、喜びは、慢性腰痛患者における運動の鍵となる要素ではないかと考えます。これらの変数がさらに調査されるのを、是非みてみたいと思っています。
痛みにおける姿勢の評価・非難する理由の背景にある科学はデタラメである
もしソーシャルメディアで姿勢、あるいは痛みの問題について言及する全ての人にお金が支払われて、それを私が受け取っていたら…、私は今頃、裕福になっているでしょう。 痛みの無い人達と腰痛、肩痛、頸部痛を患っている人達の姿勢を比較する数多くの研究があり、実際の差異は発見されていないにも関わらず、この情報は通常無視され、腰痛、肩痛、頸部痛について口にするとき、姿勢は文字通り人々の思考に深く染み込んでいます。 決して科学的知識に良いお話の邪魔をさせてはいけません!特にインターネット上では尚更です! 実際、私は以前に何度か姿勢に関して記述しています:) とはいえ、科学的知識で始めましょう。2016年に発表されたこの研究論文*ここをクリックしてください*では、腰痛患者と腰痛を持たない人達の間の腰椎前彎(脊柱彎曲)において、有意差は発見されませんでした。 これは非常に重要です。いかにして、痛みの無い人達に見られる何かを痛みの原因として非難することができるのでしょうか? 十分に理解しましょう…。 私達は何を測定しているのか? このブログで私達は、どのように姿勢を評価するのか、そして、それは科学的に有効なのかどうかということに関連しているいくつかの疑問を調査します。まず始めるにあたって、優れた測定方法を持っていなければ、問題に関する何かを非難するのは非常に困難ですから。 実際の科学的根拠に関する最初の情報は(姿勢に関する議論でしばしば欠けていますが)、立位での腰椎彎曲の測定に着目すること(しばしば脊椎彎曲は腰痛の原因として非難される)。この評価は、世界中の治療室やジムにおいて行われているものです。 腰椎彎曲は腰痛における大きな要因ではないようではありますが(上記の科学参照)、腰椎彎曲の増大(時折減少)は腰痛を増悪させるという考えは、骨盤の傾きが腰椎彎曲の大きさに影響を与えているという考えとしばしば組み合わさっています。 かなり昔、1990年に、この考えはHeinoおよびその他によって研究され*ここをクリックしてください*、骨盤傾斜角と腰椎彎曲は単純に相関関係が無いということを発見しています!骨盤のポジションに着目することが、測定がより困難である腰椎で何が起きているのかに関して伝えてくれることはほとんどありません。これよりも以前の1987年に発表された非常に類似した研究*ここをクリックしてください*もまた、同様の結果を輩出しましたが、このデタラメは、今日いまだに教えられています。 ともかく、立位の測定に関する研究論文*ここをクリックしてください*に戻りましょう。著者は、400名(無痛者332名、腰痛罹患者83名)の立位姿勢における変動性に関して調査し、立位の際は毎回やや異なる方法で立っていることを発見しました。 著者は彼等の言葉で“立位は非常に個性的で、再現性に乏しい”と述べています。 では、これがなぜ重要なのでしょうか? 簡単に言えば、あなたが姿勢の評価をする際、実際にどの姿勢を測定しているのかということです。ある姿勢は大きな彎曲を、またある姿勢は小さな彎曲を示すかもしれません。 この情報を踏まえて、姿勢評価の解釈の仕方に関していくつかの疑問があります。 これらの姿勢のうちのどれが問題に関連しているのか? 何回測定して、何回平均値を求めるのか? 彎曲が過剰、あるいは彎曲が不十分かどうかを決定するために、何に対して比較するのか? 著者は、立位姿勢における一貫性の欠如は、実際に“間違った診断と場合によっては不必要な治療”に通じるかもしれないという点を強調しています。 もしあなたが問題ではないことを重要視すれば、それが効果を表していない、あるいは一時的にしか効果を表していないという事実(潜在的になぜかなりひどい腰痛が持続するのか)がわからなくなるかもしれない、何か他のことに注目しなくなるでしょう。 人々が日常生活で用いているものもまた、クリニック、あるいはジムで測定されるものとは異なるかもしれません。クリニックやジムで測定するものは、‘スナップ写真’として表現されるかもしれません。そして、この研究*ここをクリックしてください*は、この‘スナップ写真’を研究の被験者によって日常的に実際に用いられているものと比較しました。 著者は立位時の平均値が姿勢評価時の腰椎前彎は最大で33.3度であったのに対し、24時間通しての平均値はたったの8度であることを発見しました!。とても大きな差異です! ‘スナップ写真’的な姿勢評価は、どの程度の前弯が実際に用いられているのかに関して、私達に十分に情報を与えてくれないでしょう。そして、実在しない問題の及ぶ範囲を多く見積もり過ぎてしまうかもしれません。 また、これらは放射線測定であり、臨床における‘最高基準’であることを忘れてはいけません。しばしば腰椎前彎は、骨盤傾斜を示している骨盤上の目印の関連性に着目するといった、より初歩的な方法で測定されますが、これと腰椎彎曲とのはっきりとした関連性は無いことを私達はすでに議論しています!これ自体、2008年にPreeceの研究*ここをクリックしてください*によって、問題として立証され、骨盤の形態学もまた変動的であり、誤った測定に通じるとされています。 “これらの結果は、骨盤の形態学におけるバリエーションは、骨盤傾斜と左右非対称な寛骨の回旋の測定に有意に影響を及ぼすかもしれないということを示唆している” ここにASIS(上前腸骨棘)−PSIS(上後腸骨棘)の左右差における関連性(骨盤傾斜を測定するために使用された)の配分があります。右側に偏っていることが見て取れ、骨レベルでより前傾していることを意味しています。 つまり、私達がそれほど問題ではないことを測定することが本当に苦手であるということかもしれません。なんてことでしょう! あなたは先入観にとらわれている? 姿勢を測定する人達にとってもう一つの重要な疑問は…、痛みが存在することを知っている際に、更に姿勢の‘異常な点’を見ようとする傾向があるのかということです。 この研究論文*ここをクリックしてください*は、そのように示唆するでしょう。ここで著者は、しばしば肩痛の原因として提案される、肩甲骨の運動障害、あるいは肩甲骨の異常な位置と動作に着目しています。 彼等は、肩に痛みを持つ人67名と無痛の人68名を比較し、二つのグループの間において、肩の位置、あるいは動作には差異が無かったことを最初に発見しました。 興味深いことに、評価者が有痛者を評価していることをわかっていた際、彼等は 姿勢、あるいは動作の問題に対して高い罹患率を報告していました。有痛者における‘異常な点’が無痛者と同等の場合であっても、有痛の場合ににおいては、非難すべき‘異常な点’を発見することに対して先入観があることを示しています。 著者はまた、肩甲骨の運動障害は実際のところ、個体間における正常な変動性を表していると示唆しています!恐らく、もし彼等が何度も肩甲骨の運動障害を評価すれば、異なった測定値を出すのではないでしょうか?まず始めに、逸脱に対する基準として用いられる有意に定義された‘良い姿勢’など無い、ということを覚えておくことが重要です。 健常者はどのように座るのか? もう一つの疑問は、腰痛を患っていない人達が実際にどのように振る舞うのかということです。彼等は日常的に素晴らしい姿勢をしているに違いないということですよね?しかし、実際はそんなことはありません。 この研究論文*ここをクリックしてください*は、前かがみの姿勢で座る無症状の50名の状態を示しています。10分間の座位で、立位姿勢と比較して、脊椎角度は腰椎で24度屈曲、胸腰部で12度を示しましたが、この前かがみの姿勢での座位は、彼らに問題を起こす原因になっているようには見えませんでした。 下記のグラフからも見て取れるように、脊椎彎曲の変化は、痛みにはそれほど関連していないように見えます。 もし姿勢と痛みが相関関係になければ、痛みは何と相関関係があるか? この研究論文*ここをクリックしてください*は、頸椎のアライメントの変化が実際に年齢と相関関係にあることを示しています。この研究は被験者を年齢に応じて4つのグループに分けました。そして、4つのグループ全てにおいて、年齢の増加に伴い、頸部の角度の値が全て相関関係にあるということを発見しました。 ここでの覚えておくべき重要なポイントは、120名の被験者全員が痛みを患っていないということです。実際に、ここでの除外基準はかなり厳格で、著者は実際に、現在痛みを抱えている、あるいは痛みの既往がある64名(標本の3分の1にあたる)を除外しました。 簡潔に言えば、私達は年を重ねるにつれ、姿勢は‘より悪く’なり、あるいは、恐らくもっと正確にいれば、姿勢は(角度を)増大させる…。しかし、これは重大なしかしですが、これが更なる痛みの原因のようではありません。 要約すると、あなたが読んだり、バー、ジム、治療室で言われたりするような、‘悪い’ 姿勢=痛みというほど単純なものではないようです。 覚えておいてほしいこと 痛みを抱えている人達と痛みの無い人達とでは、姿勢に差異は無い。 姿勢は動作と同様に変動性を示している。 これは、行なっている評価があなたが思っていることを示さないかもしれないということを意味している。 あなたの評価は、姿勢の‘問題’を見つけ出そうとする先入観を持っているかもしれない。 1日を通して用いられている姿勢は、恐らく評価される姿勢とは異なるであろう。 私達は歳を重ねるごとに姿勢は変化し、これは痛みの無い人にも起こることである。
股関節伸展のエクスカージョンアセスメント
クライアントの股関節伸展能力を評価するために、後方へのリーチを使って骨盤のエクスカージョン(並行移動)を起こす方法をベン・コーマックがシェアします。更に、このケースにおいては、左右の股関節のROMは同じであったとしても、左右それぞれの股関節の神経系の制御には違いがあるかもしれないことを示唆しています。
リハビリテーションにおける教育 – それは一体何を意味するのか…?
教育、教育、教育。現代の筋骨格系の臨床に関連して、この言葉をどれくらいの頻度で耳にするでしょうか? ごめんなさい、間違えました。教育&運動、教育&運動、教育&運動 : ) いつだって答えはシンプルです! しかし、教育もエクササイズと同じように、非常に一般的な言葉で語られながら、実際に適用するためのフレームワークがほとんどないという問題を抱えているのです。どのガイドラインをみても、教育が治療の中心であるかのように示していますが、実際には何の方向性も示されていないことが多いのです。私には、セラピストが不確実性に直面し、より伝統的な視点に戻ってしまう理由が分かるような気がします。 では、教育とは何について? いつ? どのように? 誰に対して? よくよく考えてみるとこのような疑問が湧いてきます。教育はここ数年、痛みに関する教育に乗っ取られていますが、実際には筋骨格系の臨床の根幹を成しています......永遠に。教育については、私が授業でたくさん話していることですが、生徒は、“ベン、早く本当の治療の話をしてくれ、こっちは退屈しているんだ”と感じているのが私には伝わってきます。 教育が適切な治療と見なされますか? 私はまだ確信していません。 人は常に情報を求めてきた これは今に始まったことではありませんね! “私の今回の腰痛は、いつもより少し長く続いているので、診てもらった方がいいと思って”と来院される方がよくいらっしゃいますね。 例えば、腰痛は2~6週間続くことがあり、これは全く普通のことだと私達は知っています。しかし、これまで数日間しか問題がなかった人にとっては、おそらく少し心配になり、ストレスの多い状況で膨らんでくる心配を減らすために、何が起こっているのか知りたくなるのでしょう。 人々は痛みを取るために私達のところへ来るのは確かなのですが、それだけではなく、自分の問題やその意味を理解し、対処法を知りたいと思っているのです。 Louis Giffordは、多くの人の間でかなり普遍的な事柄を強調しました。それは何なのか? いつまで続くのか? それに対して何ができるのか? その他に私が定期的に受ける質問は、“XXXはまだできますか…”というものです。人々はまだ何かをしたいのですが、問題を悪化させたくないと考えています。しかし、しばしば、分別良く対処するための知識を得るよりも、怖くなって活動を減らしてしまいます。 教育かまたは知識の伝達か? 私たちは“教育”という言葉を使いますが、“教育”というと、学校でやんちゃな子供たちを前にした厳しい教師のイメージがあり、私たちが実際に行なっていることをあまり反映していないように思います。 教育とは、その人が問題を理解するのを助け、問題に関する不確実性や危険性を減らし、前進する道筋を提供することなのかもしれません。これは、従来の教訓的な教育モデルよりも、知識の伝達を組み込んだパートナーシップの視点と言えるでしょう。つまり、知識の伝達や意味付けという言葉の方が適切なのかもしれませんね? 私たちは何について‘教育’できるのでしょうか? (たくさんのこと、というのがシンプルな答えです・・・) それは何か? おそらく、人々が最も望んでいるのは、診断ではないでしょうか。診断名が分かれば、効果的な治療ができる、ということですね? そうかもしれません・・・しかし、多くの筋骨格系の問題では、構造的な観点からそれが不可能であることが分かっています。このような条件下で、私たちは、問題に対して前向きで一貫性のある説明が必要なのです。その中には、痛みに関する教育も含まれますが、痛みに関する情報が優先である必要はありません。 "非特異的な筋骨格系の痛みで、痛みの原因が明らかではなく、画像診断でも所見がなく、治療によって痛みが完全に緩和されるとは限らない症例では、特定の診断がなくても、具体的で明確、かつ一貫した情報が回復の助けになる“ Carroll et al 2016 回復にどのぐらいかかるのでしょうか? 腰や膝、肩の痛みなど、診断がはっきりしない場合、予後とそれに影響する要因を知ることが、とても役に立ちます。現実的な予測を設定することも重要です。期待値が高すぎると、それが達成されなかったときに失望することになりますし、低すぎると、それを取り組むモチベーションが低下し、成果が限定的になってしまいます。 それに関して何ができるのでしょうか? 健康やライフスタイル、エクササイズ、活動、自己管理など、私たちがお手伝いできることはたくさんあります。私が思うに、管理計画を効果的に作成するための手助けが断然不足しています。ここでもまた、これを治療と見なしてもらえるのかという疑問がありますね? 相手が知りたいことは何なのか? 実際に効果的な知識の伝達のためには、相手が何を知りたがっているのか、時間をかけて探ってみることが重要かもしれません。ただ情報を流すだけでは、重要な疑問が解決されないままになってしまうかもしれません。私たちが考えもしなかったこと、あるいは重要でないと思っていることで、他の人が抱いている疑問は非常に多くあります。もし、その人にとって重要なことであれば、私たちにとっても重要であるはずです! "あなたの問題で一番心配なことは何ですか?" "私に話しておきたい大きな悩みはありますか?" "この件で一番恐れていることは何ですか?" "私が今日お答えできる最も重要な質問は何でしょう?" 状況 私の友人であるJoletta Beltonが言うように、“生物学的、経歴的な意味”を持たせる必要があるのです。これが痛みの教育で大きく欠如していたことだったと私は思うのです。自動的にその人の話に溶け込めるわけではありません。パブで見知らぬ人が自分の人生について話しているときに、自分とは関係ない話をされているようなものです。自分のことばかり話す友人もそのひとつ例で、あなたはその場から逃げ出したくなるでしょう。 ですから、あなたの知識の伝達が、実際にその人とその人のストーリーに関連する形で行われるようにしてください。 失敗 私たちが役に立つと期待するものの中に成功しないものがあるのは、このためかもしれませんね? 例えば、何をすべきか、なぜそれをするのか、それがどのように役立つのかという知識がなければ、そのエクササイズは、その人とその人が抱える問題には関係がなくなってしまいますね? 私の失敗の多くは(プロとしての)、相手と治療哲学の点で一致しなかったことが原因だったと思います。私のビジョンと相手のビジョンが一致しないのは、私が、何を、なぜ、どのように、を‘教育’することができなかった、または失敗していたからかもしれません。 まとめ 教育 は治療です。 実際はどのような意味があるのか? たいていの人は常にセラピストからの情報を求めています。 教師のスタイルではなく、人中心で考えましょう。 何であるか?回復にどのぐらいの期間かかるのか?何ができるのか? 相手が知りたいことを見つけましょう。 状況に応じた情報を応用しましょう。
「休息をとる」&「活動を維持する」と言うアドバイスが両方とも少し的外れかもしれない理由
以前は、ベッドレストは腰痛の治療の重要な一部であり、実際に多くの人がいまだにそうだと信じています!今はガイドラインとなるアドバイスは「活動を維持する」であり、休息は古い考え方で、一部の臨床医にとっては「悪い」ものでさえあるように思えます。 筋骨格系の痛みや怪我の分野は、非常に速く二極化することがありえます。もし、あるものが優れていないとなれば、それがそうではなくとも、すぐに劣っているということになってしまいます。例として体幹の安定性のエクササイズのことを考えると、それは筋骨格系の断崖から奈落へと落ちて行ってはしまいましたが、それについての注釈が無意味であったとしても、依然として他の腰痛を治療する方法と同じように効果があるものです。 そのため、休息をとることと活動を維持するというアドバイスは共に、おそらく一概的に決めつけた発言のように少し価値のないものかもしれません。臨床医の役割の一つは、人々が自身の痛みをより深く理解し、そしてうまく管理することを助けることであるべきです:この人の個々の症状や制限は何か?同じように分類されたとしても、全ての腰痛が同じではありません。これは、もちろん新事実でもなければ、特に新らしい情報ではなく、Maitlandによる「悪化要因」は今でも痛みの問題を理解し、また人々に自身の痛みの問題を理解させるための重要な要素です。 このような実際に問題を悪化させるものを明確にすることで、私たちは、それらからはもう少し休息とり、一方で問題をそれほど悪化させることのない他のことにおいては活動を維持することができるかもしれません。これは、本来は私の思う基本的な常識以上のことではないのですが、多くの人々がしっかりとした分析なしに休息をとるか、または痛みのあることをやり続けるよう言われていることを考えると、この常識は時折欠如しているのかもしれません。 例 例として、私は最近、ジムのセッション後の夜に悪化する坐骨神経痛の痛みのひどい人を受け持ちました。明らかに、これを続けることは問題であり、ある程度の休息は理にかなっているように思えました、少なくとも私には。より大きな問題の一つは、心理的な対処の観点からは、完全な休息は本当の選択肢ではないことであり、これは一部の非常に活動的な人たちにとってはそうなりえるものです。ここでは、悪化させないように強度とボリュームのレベルを下げるという目標を絞った方法が役に立ち、一方でその人に運動も続けさせ、(適度に)満足させます。時には、頑固/永続的な習慣は非常に根深く、これは完全な休息を基本とした方法に対して難しいものになるでしょう。 ガイダンス もしかしたら、ここがガイダンスの必要とされるところであり、悪化するものを監視して順応させるためのツールを人々に与えることで、問題に対処するための彼らの能力(そして自身に対する自信)に大きな影響を与えることができます。繰り返しになりますが、これは新しいことではなく、90年代のIndahlの文献まで振り返ると、問題や痛みに対処することについての基本的な情報は、彼のグループのアプローチの主要な柱であったことがわかります。 さて、もし痛みが多くの様々な活動において本当に悪いものであれば、最大の痛みが引くまで待つ(一般的にはそうなるでしょう)ために数日間の完全な休息をとることは、私は全く間違っているとは思わず、また同様に、もし痛みが非常に弱い、または特定の運動でしか現れないのであれば完全な休養を取る特段の必要性はないと考えます。実際の微妙な違いは、その中間にある痛みの症状の大半にあります。制限したり今後悪化したりするに十分な痛みがあるが、代償が伴うこともある完全な休息をとる根拠とするにはおそらく十分なものではないのです。 私は非常にシンプルな「視覚的アナログスケール(VAS)」を用いた採点のスケールを使用しますが、問題の過敏性も考慮すべきもう一つの要因です。願わくは、身体活動介入のU字の特性を考慮してほしいものです。 シンプルなスケール(VAS) 8-10-休息 4-7-活動の変更 1-3-活動の維持 活動を変更するための私たちの医学的な理由づけのために自身に問いかけたいいくつかの質問があります: 全く違うことをしてもよいか? ボリュームを変えられるか? 強度をかえられるか? 頻度を変えられるか? これによってどのような影響があるか? 将来的な回避行動の可能性を作り出すことを避けるために、痛みが変化するにつれて元の活動への復帰を必ず段階的にすることも非常に重要です。何かをすることを止めるように言われ、二度とそれを再開しなかった人達がどれほど多くいるでしょうか?私の経験ではかなり多いのです。 キーポイント 一概的に決めつけるようなアドバイスは少しばかげている 優れていないということは劣っているということではない 基本的な痛みの管理のアドバイスは役に立つ 悪化させる運動にいかに順応/調整できるか?
もし10回中9回がくだらない介入なら、一体私は何をすればいいのか?
衝撃的なタイトルであることは分かっていますが、何を期待したんですか、ソーシャルメディア向けでなんですから。 しかし、最近発表された、ヘルスケアにおける多くのトリートメントの有効性に関するこのような論文を読むと、かなり気が滅入ります。10個中9個は、質の高いエビデンスに裏付けられていません*ここから*。 驚くべき結果を示さない研究は山ほどあり、多くの介入は11点満点で1~2点という臨床上重要な最小限の差異(MCID)の閾値に達していません(比較対象によって異なる)。痛みはとらえどころのない生き物であるという事実は言うまでもありませんが、ライフスタイル、遺伝、健康の社会的決定要因、合併症、症状の自然経過など、患者や治療者がコントロールできないことがたくさんあるため、私にとって、これは驚くべきことではありません。 しかし、落ち込みすぎる前に、人々は良くなるということを覚えておくことも重要です*ここから*。それを自分自身のブランドの魔法であると勘違いする人もいますが*ここから*。私たちが使う特定の介入が彼らを良くするするわけではないこともあります。 では、もし私たちがエビデンスベースであるならば、今何をすべきなのでしょうか?もちろん、効果のない介入の鬱の海へとスパイラルすることも一つの選択肢ですが、それは少しの間であっても推奨されるものではありません。 数年前(大昔)、ヴォルテールが雄弁に我々に語ったように・・・。 「医術とは、自然が病気を治す間に、患者を楽しませることから成る」 もし私がこの格言を21世紀風にアップデートするなら、医術とは、それほど楽しいことというのではなく、より理解すること、理に適っていること、問題を増幅させることが多い心配事と不安を減らすことである*ここから*。 ここではっきり申し上げておきたいのは、要点は現在の研究成果を凌駕する代替治療法の涅槃としてこれを提供することではありません(「データを示せ!」という声が聞こえます)。実際に現在ある研究基盤の中で活動し、大きな効果をもたらす治療法がないことを受け入れることです。私の経験において、治療家(そして人)であるということは、ほぼ受け入れるということなのです。 このことは私にとって、痛みの問題を抱えた人々と仕事をすることの過小評価された部分であると思います。私達はどのようにそれを計測、あるいは定量化するのでしょうか?はっきりとはわかりません(このことは私以上に聡明である誰かにお任せします)。必要でしょうか?あなたの見方次第でしょう。結果が改善されなくてもそれをすべきでしょうか?そう思います。BPSモデルの一部分は、定量化されているすべてのものから距離をとること、あるいは、小さな箱に入れてしまうことです。 この最近の論文では、腰痛を持っている人はその問題についてより理解したいということを明確に指摘しています*ここから*。 どうすればいいでしょうか? まず最初に、この問題を治療家が理解していることは大いに役立ちます。そうすれば、我々の周りの多くの筋骨格系問題に存在する、すべてのくだらないナンセンスを整理することができます。例えば、「筋肉が活性化されていない」、あるいは、「この筋肉が硬い」、あるいは、「骨のアライメント異常」(おそらく毎日聞いていることなので、私がここでお伝えする必要はないのですが)。腰痛は文字通りがらくたとたわごとのパンデミックです。まず初めにあなたが問題を理解していなければ、クライアント/患者がこれを解決することはできません。そして問題を悪化させないことは大きな価値があるのです。 問題を理解することを助けてくれる正確で現実的な情報を与えることは、私にとって大事なことであり、人々を助ける主要な部分になります。最後の言葉が重要です。痛みのみではなく、人間です。始めに痛みがいかにつかみどころがないかについて議論したことを思い出してください(そして、それは科学的根拠に基づいています)。 ただ単に問題について理解して、至るところで人々に「教育」と吐き捨てるのではなく、相手を心配させているものが何で、何をもっと知りたがっているのかを理解することが大切なのです。例えば、相手が何を心配しているか分からずに、どのように相手を安心させることができますか?確かに人に情報を一方的に押し付けて効果があることを望むこともできるでしょうが、問うこともできたのです! これは、私たちが(可能な限り)つながり、オープンで正直な対話の場を作ることに価値を見出すことができれば、本当にすべてが改善されるのです。これは、特に介入がまだ十分でない場合、人と仕事をする上で本当に特効薬です。 適用されるトリートメントは、私や他の人が提供する価値の一部に過ぎないと考えるようになりました。特に、有効性に関するデータを考慮した場合。たとえ痛みや障害などの結果に大きな影響を及ぼさなくても、相互作用、コミュニケーション、理解するというプロセスは、同じくらい重要だと考えるべきです(もちろん、私の意見ですが)。
腹横筋、それが問題ですか?なぜ私達は、腹横筋にこだわるのでしょう?(パート2/2)
腹横筋を活性化する(遠心性収縮)ためには、胸郭と骨盤の動作を必要とします。胸郭と骨盤は、両腕・両脚の動作の影響を受けています。運動連鎖の上もしくは、下のものは、潜在意識的な腹横筋の活動と機能的状況下での動作において、胸郭と骨盤での適切な動作を引き起こすために動いていません。脊柱から遠く離れた動作であっても、中枢神経においてまだ固有受容的反応を引き起こすでしょう。私達は、足が股関節の動作に多大な影響を与えていることを知っています。よって、足は腰椎と腹横筋においても反応を引き起こすに違いありません。腰痛をみる際、足を十分にみていますか?これはこれで、充分にひとつの記事になってしまいますよね! 適切な関節運動が生じなければ、この腹横筋への固有受容的信号も発生しないでしょうし、腹横筋の活動を減少させるかもしれません。私達はまた、何を腹横筋の活性化と捉えるのかを自らに問いただす必要があります。これは遠心性収縮、もしくは求心性収縮なのでしょうか?これは筋電図が教えてくれるものではありません。常に仮説においては、筋肉は短縮していて、このことは腹横筋“発火”のためのエクササイズ戦略に、影響を与えています。 もし腹横筋の役割が、個々に脊柱を安定させることならば、腹横筋は胸郭と骨盤が分離した際にも、求心性収縮もしくは、等尺性収縮したままにする十分な力を保っているのでしょうか?これに答えるためには、私達は腹横筋を機能的状況に置かなければなりません。 私達が歩行のような誰にも共通する機能をみて、発生しているモーメントに関しての生体力学の研究を読んでいれば、骨盤が前方に落ち前傾になることを知っています。前方を見続けられるように、胸郭はさほど屈曲しません。これは腰部脊椎に伸展モーメントを発生させます。骨盤が前額面で上方に回旋し、脊椎は同側に側屈して腰椎に側屈モーメントを発生させます。骨盤回旋が片側で起こると、反対側では体幹の回旋が起こります。これが、再び腰椎の周辺で回旋モーメントを発生させるでしょう。腹横筋の活性化が良好であれば、これらの力モーメントを得るのでしょうか、もしくは腹横筋が運動を固定するために、関節運動は起こらないのでしょうか?では、どのようにこれが運動連鎖の上部と下部の運動に影響を与えるのでしょうか?腹横筋は、骨の運動に抵抗するための力生産能力を有しているのでしょうか?身体は、高い力モーメントを伴う状況下での脊椎安定化のような大きな仕事に直面する際、一つの筋肉だけを利用するという選択をするのでしょうか? 堅いニュートラルな脊椎という概念自体もまた少し奇妙です。進化は、本当に少ない分節を持つ椎骨の構造を創り出すでしょうか?関節運動のためではなく、固定されることを意図した骨。というのではなく、私達は、腰椎の大部分は屈曲・伸展するのをみます。ニュートラルは、私達が通り過ぎる姿勢かもしれませんが、明らかに私達が留まっている姿勢ではないのです。ジムにおいては、私達はなんとか不自然な姿勢でいるように試みることはできるかもしれませんが、テニスコートに出たり、道を歩いたりするだけでも、腰椎で発生している関節運動は、ニュートラルとは程遠いのです。 また、長時間にわたる等尺性収縮、もしくは求心性収縮の残存における代謝的関連もみなければなりません。従来のモデルに従えば、いかなる動作においても、腹横筋が脊椎を固定するために求心性収縮をし、私達が長時間動けば動くほど、腹横筋は長時間収縮し続けることになります。筋内圧や血流が包含するのは何なのでしょうか?どのように不可欠な酸素が到達し、乳酸の除去が発生するのでしょうか?遠心性から求心性への動作は、筋肉が必要とする血液を筋肉系に供給するパンピング機構をもたらします。求心性動作以前の遠心性動作の機能的な過程は、潜在意識的な情報とエネルギーのみでなく、身体が代謝的に生存する手助けをするポンプを提供します。 腹横筋の力は、実質的に構造自体、その領域の生体構造にあるのかもしれません。腰椎の主な運動は、矢状面で発生します。腹横筋の線維配向は、横断面です。これは、矢状面力が作用する際、線維の分離は、制限されることを意味します。これにより、受動的で潜在意識的な反応を介して発生する自然な剛性と安定性をもたらします。これは、身体が稼働するための推進力であるエネルギーの観点からすると、極めて効率的です。 これがコラーゲン含有量が高く、短い線維長の遅筋線維優位と組合わさることで、受動的な剛性が発生します。他の筋肉や筋膜と孤立した状態で起こることはありませんが、これに適合可能な筋紡錘獲得を介して、神経学的に制御されたフィードフォワード要素を加えると、私達は、腰部脊椎に力強く潜在意識的な効果を得ることができます。 いつもの通り、またもや大量の私見と共に、回答の数を凌ぐ程の疑問を提供してしまったのではないかと思います。臨床状況から離れ、動作と合力に従うと、腹横筋は異なる役割を担っています。これらの環境下では、全ての筋肉は、静的な状況において、私達が認知している役割とは異なる役割をするのかもしれません。
腹横筋、それが問題ですか?なぜ私達は、腹横筋にこだわるのでしょう?(パート1/2)
私達が、理学療法士や他の医療従事者を対象にコーキネティックのコースを開催するときはいつでも、腹横筋と腰痛という同じテーマが浮上してきます。このことが、私にこのテーマについてのブログを書かせる動機づけになりました。 多くの医療従事者が、効果的な腰痛戦略として教えられたものを疑問に思い、葛藤していると感じています。単純にコアや腹横筋に働きかけることが、簡単で効果的な戦略なのであれば、慢性的な腰痛など存在しないでしょう。多くの腰痛は、治療介入なしに自発的に消えていくのが真実です。腰痛は、身体が痛みの起こらない他の動作戦略を発見すると共に、断続的に戻ってきたり、他の部位へ移動したりします。これは、その状況をなんとかしようとして身体が代償したり、その疼痛閾値を修正したりする能力であろうというのが、私の謙虚な意見です。 このブログの焦点は、研究や議論を席巻する傾向にあるタイミングの問題ではなく、腹横筋が何をして、何をしないかにあります。私は、列車がいつ駅に着くかよりも、着いた後にどうするのかに気をもんでいるのです!Hodges (1998)の研究では、症状のある人と症状のない人での腹横筋収縮の違いは、約20ミリ秒、もしくは約1/50秒でした。ごく僅かな違いです。このようなごく僅かな遅延において、私達はこのタイミングの問題を意識的な収縮で修正するすることができるのでしょうか、それともこれは意識的な制御の域を超えているのでしょうか? もう一つの疑問は、私達はそれぞれ単一の筋肉を、意識的に動かすことができるのかということです。身体において、筋収縮が単独で起こることはありません。収縮は、関節の動作と安定に関与している筋肉の領域において、運動単位を支配している脳によって発生します。この神経支配は、関節の角度、スピード、努力のレベルの変化につれて変わります。これは、身体の筋活動を全体的に眺める際のとても複雑な見解を、極めて単純にしたものかもしれません。 機能的周期運動の間、意識的な活性化が起こることもありません。私達の運動パターンは、意識の域を超えて設定、もしくは発達しています。これは、私達が生活の中での他の問題に気をもんだり、夕食で何を食べるかについて悩むことを可能にしています。身体や環境に作用している力に起因している私達の骨の動きは、骨の捻転や移動を制御するために、筋肉の反応を引き起こします。これらの反応は、通常、求心性収縮的に筋肉を短縮する前に、骨の動作を制御するため、筋肉を遠心性収縮的に伸ばします。筋力を作り出すために、固有感覚系を介して潜在意識的な引き金を提供しているのます。そして、これは意識的な活動よりも、とても効率的なシステムなのです。この過程は、全身の全ての筋肉で発生し、最も重要な心臓も同様で、潜在意識的に発生します。 そして、このことが私に、私のよき指導者であるデビット・ティベリオ博士が常に筋肉について、“もし筋肉のスイッチが入っていないなら、何がスイッチを切ったのか?”と尋ねていた問いかけを思い起こさせます。 この質問に答えるためには、私達は筋肉の付着部と、筋肉が機能的動作において何をするのかをより理解しなければなりません。 腹横筋は、肋骨と骨盤に付着しています。これは、単純に腹横筋は、身体の主要な発動力である両腕、両脚の動作の影響を受けていることを意味しています。また、腹横筋の線維は、横行配列があり、収縮をすることで前部と後部の付着部同士をお互いに近づけ、体幹を回旋させます。実際、腹横筋は2つの部分に分けられます。Cresswell AGおよびその他 (1999)は、体幹回旋運動時の“左右の腹横筋間の活動における相互パターン”を記録しました。片側の遠心性収縮的伸長と反対側の求心性収縮的短縮は、首尾一貫しています。では、なぜ私達は腹横筋を回旋筋として見ずに、等尺性であり続ける傾向のある筋肉として見るのでしょうか?Hodges (1998)の素晴らしい研究では、腹横筋を評価するために、参加者は異なる腕の動作を行うことを要求されました。最も腹横筋の反応を引き起こした動作は、肩の外転でした。この外転の力は脊柱を同側に回旋させ、この脊柱の回旋への反応として、固有感覚反応と腹横筋の活動を引き起こします。これは、腹横筋の回旋する性質を示しています。このケースにおいては、研究自体は良いものであったにも関わらず、エクササイズ戦略を立てる際の、私達の解釈が間違っていたのかもしれません。
脳、動作、痛み!(セクション II・パート3/3)
皮質地図 私達の大脳皮質の中には、身体の領域の皮質再現があります。この皮質再現は、脳の多くの領域に存在するニューロンのネットワークであり、身体領域のひとつと関連しています。最も良く理解されているのは、体性感覚/運動領域です。 足には足の領域が、手には手の領域があるのです!。身体からの感覚情報は、それが関連している領域に投射されます。1930年代にペンフィールド博士は、最初に皮質領域の地図を作った時、これらの領域をホモンクルスもしくは、小人にして表現しました。 Merzernichの1984年の有名な研究では、猿の第3指を切断する前に、脳の地図に手を描き、そして、切断の62日後に再び脳の地図を描きました。 彼は、第2指と第4指が、以前は第3指に関連していた領域に入り込んでいることを発見しました。これは、“使わなければ失われる”の例なのです! これは、偉大なる神経科学者ラマチャンドランによって研究された幻肢痛のようなコンディションに大きな影響を与えています。身体の部分が切断されても、その部位の皮質再現は残存します。身体局所的に組織された隣接領域は、この残存している領域に入り込んでいきます。これは、手首を司る領域は前腕領域の隣にあり、前腕領域は肘領域の隣にあるというようなことを意味しています。よって、腕の肘から下が身体的に切断されていても、残存している腕領域は、以前は腕の感覚フィードバックによって占有されていた皮質空間に入り込んでいる、肘からの感覚フィードバックを受信することになります。 Flor およびその他(1997)は、慢性腰痛の患者において、体性感覚皮質(S1)内の腰部領域は、下腿領域に入り込んでいて、この拡張の度合いは、痛みの慢性化に密接に関連していることを発見しました。 この感覚変化は、私達の運動能力にも大きな影響を与えています。私達の感覚情報は、運動野に到達する前に感覚野を通って流れていきます。このように、私達が感じていることは、直接的に私達の動き方に影響します。同様に、私達の動き方は、私達の感覚野に影響します。この場合もやはり、“使わなければ失われる”でありえるのです。 トーマス・ハナは、私達が身体の特定の部位を、自発的に動かしたいように動かす能力を喪失している状態を‘感覚運動記憶喪失’という造語で表しました。そういった人達は、しばしば弛緩することも収縮することもできず、姿勢の変化を作り出せない不変の姿勢で行き詰った状態でいます。これは、習慣的な動作や姿勢、損傷後の持続的な防御運動パターンによって発生します。姿勢を変えるためや、これらの身体の部位を動かすために関連する神経経路は、その無活動さによって消失していきます。 “感覚地図からの一定で正確なフィードバック無しには、運動地図は役目を果たすことができません。そして、相互退化のフィードバック・ループがセットアップされます。感覚地図が悪化すると運動地図も悪化し、そして、感覚地図がより悪化します。” ~“身体は、独自のマインドを持っている”とサンドラ・ブレイクスリーとマシュー・ブレイクスリー夫妻は述べています。 Zヘルスのデビッド・バトラーとコブ博士の両者は、この地図のぼやけと不鮮明さを痛みの原因、もしくは痛みの結果として挙げています。脳は、感覚性不一致の場合、地図の鮮明さの減少が大きなインパクトを与えるために、不正確な地図を“脅威”として知覚することができます。 この再構成は、痛みに直面した時にも発生します。よって、過去の外傷や痛みの既往が、神経可塑性を通して、将来の動作に影響を与えます。オーストラリア人神経学者のロリマー・モズレーは、慢性痛を持つ患者においての神経皮質の変化と、それがどのように運動調節に影響するかの研究を行っています。 ”痛みが持続する際に発生する変化の一側面として、一次感覚皮質における痛みを伴う身体部位の固有感覚的表現があります。これらの表現は、脳が動作の計画を立て、遂行するために使用する地図であるため、運動調整に影響を与えるかもしれません。身体部位の地図が不正確になると、運動調整は阻害されるかもしれません。皮質性固有感覚の地図の実験的な混乱が、運動計画を邪魔するということが知られています。” ~ロリマー・モズレー:サウス・オーストラリア大学の臨床神経科学の教授、及び健康科学学部の理学療法科の教授。 私たちは皆、生きている間に、皮質レベルで運動能力を損ない、再構成するような軽傷と重傷の両方を経験するため、この影響は重要です。ケガによるリハビリテーションは、通常、疼痛反応の除去に関連しているのであり、ケガに関連している動作の欠如や神経可塑性の変化を修復するものではありません。これが慢性障害/慢性痛の状況をもたらす可能性があります。痛みが治まっても、疼痛反応の間に誘発する局所の防御運動パターンが持続するかもしれません。そして、これは全体の運動パターンを変化させ、機能に関連した運動連鎖内の、他の領域に影響を及ぼす可能性があります。 感覚運動不一致も、痛みに起因しています。私達は、これを以前に考察した小脳内の入力機構と結びつけることができます。マックカーベ (2005) は、ラマチャンドラン (1995) の、動作意図と固有感覚フィードバック間の不調和によって引き起こされる組織損傷の欠如における痛みについての非公式の推測について検証しました。この研究では、運動指令と固有感覚フィードバックを阻害するために、鏡が使用されました。確かに、この研究には視覚系が関与しているため、感覚と運動の調和を考察する際、及び小脳の入力と出力を見る際には、これを考慮に入れなければなりません。 Zヘルスのコブ博士は、脅威と身体への痛みの要因としての感覚不一致についても考察しています。例えば、私達が頭部位置の傾斜や回旋を起こす視覚の優位性を有していれば、小脳内で情報が統合される際に、視覚系情報は前庭系情報と食い違っているということになるかもしれません。視覚系から本来の位置と仮定される頭部の位置は、前庭系からの本来の位置ではありません(頭が傾斜しているため)。それぞれの発信源からの情報は、相反しています。これは、感覚間不一致と脳内の‘脅かされた’状態をもたらす可能性があります。 “神経障害痛のような感作、阻害された神経系において、感覚運動不一致は痛みに寄与、もしくは痛みを維持する可能性があります。” 〜Moseley and Flor 2012年 痛みは複雑な問題ですが、ただ固有感覚フィードバックもしくは、侵害受容フィードバックに関連しているだけではありません。 この非常に簡単なブログの範囲で収まらない程、痛みには多くの脳に基づく根拠があり、痛みに関して研究すべき脳の領域が他にも多くあります(免責事項完了)。そのような一つの根拠は、侵害受容線維から入力の無い身体上の組織への損傷という明らかな脅威です。 次のパートでは、蓄積されたパターンに基づき脳が行う予測と、脳が受信する感覚情報の知覚について考察します。この予測は、いかなる組織損傷も存在しない場合でも、痛みを引き起こすかもしれません。このように、痛みが当然ではないかもしれない状況でさえ、身体は組織への脅威を予測することができます。そして、感覚情報の処理の中枢性感作についても考察します。以前に脅威、もしくは痛みの閾値を超えていないかもしれない信号は、中枢性閾値の低下として解釈されます。