マイクロラーニング
隙間時間に少しずつビデオや記事で学べるマイクロラーニング。クイズに答えてポイントとコインを獲得すれば理解も深まります。
動きの機能障害 パート2/2
PNF(固有受容性神経筋促通法) 私たちは、姿勢とパターンを利用して神経系を活性化させる方法を学びました。これらは機能障害や特定の身体の部位に焦点を当ててはおらず、代わりに、シナジーや協働する身体の部位の賞賛すべき側面に集中しているのです。 赤ちゃんは、歩くためには多すぎる身体的な機能障害を、生まれながらにして持っています。彼らはより機能的な方法で行うことでそれらを解決します…そして機能障害はなくなっていくのです。 肩は独立して機能するわけではありません。それは肩帯とともに機能し、そして肩帯はそれ自身を脊柱に固定します。私たちが肩を使って行う多くのことは、肩自身の意図によって管理されるのではありません。それらは手の意図によって管理されます。あなたの手の使い方によって、あなたの肩の使い方に影響を与えるのです。同様に、脊柱の維持の仕方が、あなたの肩の使い方に影響を与えるのです。あなたが成し遂げたいパターンやそのために選択した姿勢は、肩で起こっていることの両端です。ほとんどの場合で、肩は基本的に、手からの命令を聞き、そして姿勢の統合性に反応しているのです。それは、単に身体全体を見て機能障害を測定することとはまるで異なることです。 筋力不足のローテーターカフをトレーニングする方法は二つあります。一つは、その人に外旋の筋力不足があるかどうかを調べることです。あるポジションで、単にあなたが外旋方向に力を入れることで測定することができます。そのテストがどんなものかを、皆さん想像することができるでしょう。それは、肩を一方向に働かせるだけの非常に面白くないテストです。私たちが犯す主な間違いの一つは、そのテストを練習することで、機能障害が解消すると思い込んでいることです;「その方向に筋力不足があれば、ゴムバンドを一部切り出して、次に来るまでその動作を繰り返し行って、そしてローテーターカフを再テストすればいい」。 ローテータカフを強化する他の方法は、外旋に関して整形外科で学んだ全く同様の機能障害テストを行い、さらにPNFのパターンを試します。これらはダイアゴナル・ワン(D1)とダイアゴナル・ツー(D2)パターンと呼ばれ、屈曲と伸展の両方を含みます。これらの四つのパターンを調査する際には、単に一連の筋群を同時に使いながら、お互いを補うためにらせん系及び対角線で使用するようにします。私たちが行う、投球、打撃、挙上、引く、そして押すといった多くの自然な動きは、屈曲、伸展、D1そしてD2の上半身のパターンから派生したものです。そして、そうです、これらのパターンは下半身にも存在します。 私の最初の矛盾点:筋を孤立させたテストでローテータカフの筋力不足を測ることができたとしても、私はそのテストに似たエクササイズを用いてそのローテーターカフを単に強化するでしょうか?それとも、その肩により複雑な自然なパターンをさせ、このパターンにおいてローテーターカフが弱点だと非常によく理解したうえで行えば、明らかに大きな効果を得るのではないでしょうか?その筋が強くなっていく一方で、協働して作用する方法も学習します。タイミングとコーディネーションを通して、協働または拮抗しながら上下のその他の筋を補完するのです。 簡単に言うと、私の整形外科の背景は、筋を孤立させ、部位を明らかにし、機能障害を測定し、そしてそれらを機能と動きに関連付けるよう私に教えました。私の神経学的な経験は、姿勢とパターンを見ることで全体はその部位の合計よりも常に大きくなることに気づかせたのです。 整形外科は、きれいで、明確で、簡潔であるように見えます。神経学は、面倒で、広範囲で、そして複雑であるように見えます…が、動きから一歩引いた時により良い全体像が見れるようにも思えます。 これを解決する前に、もう一つの矛盾点がでてきました。理学療法の学校の後、私は徒手療法を可能な限り深く学び始めました。徒手療法は私に整形外科的な治療について全身を見る方法をとることを示し、実際に全ての動く部位を考慮します。より徹底的な診断で、多くの場合、問題は一つだけではないことに気がついたのです。複数の問題があり、通常それを誘発するものがあります。 ひとつの機能不全な動きは、複数の機能障害を独立したものではなく全体として直面させます。それは、個別に測定された機能障害の影響を無視するものでは全くありません。それは解決策ではなく、単に異なる見解の並行した基準なのです。 私が、痛みがあるところが必ずしも問題ではないことを学んだのも、徒手療法の経験を通じてでした。 局所的相互依存関係という言葉ができるずっと前に、私はうまく作用していない(機能が悪い)けれども痛みのない身体部位が、実際には痛みはあるけれどもちゃんと作用している(機能が正常である)身体部位よりも、より大きな問題となることに気づいていました。 しかし、一つの部位に痛みがあることに気付いた事実が、そもそも、その状況を引き起こしている機能不全を見えなくしていました。私たちはそれを代償と呼びます。一つの身体部位が、うまく作用していない他の部位を埋め合わせるために過度に働かなくてはなりません。そこに痛みがなくとも、うまく作用していない部位が実際には問題なのです。 私は、より徹底的な動きのテストを探求しました。私は、運動学とバイオメカニクスによって整形外科的な仮説を立てるという都合の良い方法よりも、徒手療法によって整形外科的な診断をするという徹底的な方法から多くの見解や考えを得ました。欠点のある部位を明らかにし、その部位を個別にトレーニングする(または単に整形外科医によってその部位を置換する)ことは簡単である一方で、その方法が全体をその元々の機能に近いところまで修復することは稀です。それはバンドエイド、または、良くても固定用の装具のようなものなのです。 それでも機能障害についての測定値は必要であり、なぜなら私達が作り出そうとしている部位の変化の実現に役立つからです。しかし、単にすぐに元に戻ってしまうような、短期間の運動によって成り立っている人工的な変化とは対照的に、本当の変化を見ることができ、それ自体のプラスの変化へと続くように、評価テスト自体を練習しないという見解も必要です。 もし私が: 1. 全身の徒手療法の考え方を用いて機能不全がある部位だけでなく、痛みのある部位も明らかにし、そして… 2. 神経学的な統合モデルを私のリハビリ手段として用いることで… 3. もしかしたら、整形外科が私たちに部位を見て機能障害を測定することを求めるという事実を調和させられるかもしれません。 それについて全く問題はなく、そして私たちはそうするべきです。しかし、それらの手順を動き方で解決できないのであれば、あなたの動きの生涯で何かが起きたときに完全なリハビリを施行することにはならないでしょう。 機能障害を測定することには、何の問題もありません。問題があるのはそれが測定された方法と同じ方法でそれを治そうとすることです。それによって、統合エクササイズではなく、アイソレーションエクササイズによってそのテストを練習することになってしまいます。あなたは、もしその機能障害を対処すれば、動きが自発的に修復されると思い込んでしまうことになるのです。 良い動きは機能障害を遠ざけておくでしょう。 私の気づきは正反対の道筋を辿りました:私たちは、動きに着目して、そしてあなたの動きの適確さが失われ始め、そして代償動作や間違いをし始める瀬戸際を見つけるために、動きの適格さが保てるところまで導くべきです。一旦そこに辿り着けば、あなたにそのレベルでそれらの動きを解決させることになります。機能障害がそれ自体を解消し始めるだけでなく、それらの機能障害を、それを明らかにするためのテストを練習することなく解決していくでしょう。それはテストの人工的な測定値に対する本当に本質的な解決策があるということを意味しています。 もし、あなたが、全体はその各部位の合計よりも大きいと本当に信じているならば、単にその部位を良くするだけでは全体を良くすることにはならないことに気づくでしょう。私たちの場合、全体とは動きの複雑さのことです。私たちには、機能障害と部位の評価ツールと共に、動きの評価ツールが必要です。可能な時は常に、私たちは動きの情報と機能障害の情報とを一致させなければなりません。さらに、痛みが出るのは問題がある場所ではなく、そして問題があるのは痛みがある場所ではないかもしれない、ということを覚えておかなければなりません。 1. 整形外科のエキスパートのように問題をマッピングしましょう。 2. 神経学的な漸進方法に沿いながら、姿勢やパターンを通して治療しましょう。 3. 可能な時は、整形外科的な方法を用いて感覚を向上させる一方で、新しい情報を知覚し処理するために感覚器への刺激が豊富な機会を提供しましょう。 全体の動きと部位のインプットを測定しましょう。そしてあなたが発見したことを擦り合わせましょう。
動きの機能障害 パート1/2
振り返ると、私が初めて動きに注目したのは農作業や森の中で遊んでいる時でした。農場の動物や自然の中の動物の動き方をみて、そしてそれらがどれだけ私の動き方と違うかを見ていたのです。私がスポーツの世界に入ると、同じ成果を求めた運動を行う際に私自身をチームメートや競争相手と比較し始め、そして、そこにも違いがあることに気がつきました。 私の動きに対する興味は、私を運動科学とスポーツ医学の学位へと導きました。それがキネシオロジーのコンセプトに初めて触れた時です:どのように身体中の全ての筋肉が配置されているか、その付着部が起始と停止と呼ばれていること、そしてどのようにその収縮が人間の身体の動き方を生み出すか。それは非常に便利で、信じられないかもしれませんが、一度記憶すると、あなたがある動きに関連した全ての筋を単に知っていると、その動きに関する全てを理解しているような幻想を与えるのです。 問題は、筋を図解することでは動きを教えることはできないということです。 便利で時には目を見張ることですが、単に身体の筋の名前をあげるのみでは、動きをどのように分解し、再構築するかは実際には分かりません。筋が識別され、名前を与えられるずっと前から、人々が、自身の人生の中で生き延び、そして独立を追い求めるために、優雅で芸術的な方法で動いていたことは歴史が示しています。 動きのマップは領域ではないのは明らかです。 次に、私の探求の旅は理学療法の学校へと続き、そこでの機能障害を見つけるための教えは、部位に基づいた観点をより便利なものにしました。機能障害とは私たち人間の身体にある測定可能な欠陥を表すために使われる言葉であり、それらの多くはそれぞれ、硬さや筋力不足、モビリティの問題と動作コントロールの問題を中心に起こります。 あなたが整形外科的な考え方を取るのであれば、あなたの肩の動きの潜在的な問題はローテーターカフかもしれないということを理解するのは簡単かもしれません。その筋群は、実際には引いたり、押したり、ものを持ち上げたりするためのものではありません…それらはあなたの肩の複合体全体を一つにまとめておくものです。 人間の関節(この場合では肩)は、ピンや軸によって支えられているのではありません。それは球窩関節であり、少数の筋が骨頭と関節窩を一つに押さえている一方で、その他の多くの筋が単にそれらを引き離そうとします。その「協働作用」が回旋の軸を作り出し、よって動きが起こります。私が整形外科の初歩的な講義を聴講するにつれ、誰かに肩の機能不全があれば簡単な徒手による筋のテストを行い、筋力不足を見つけるということは非常に明白になりました。または、可動域のテストを行い、硬さを見つけることもできます。このような知識を身につけることで、その筋力不足を解消するためのエクササイズを処方できます…または、硬さを解消するために伸張または強化エクササイズを処方できるでしょう。これらの状況が事故や怪我で起きたのであれば、私たちはその事故や怪我以前は全てのことが正常であったと仮説を立てることができるでしょう;機能障害として私たちが測定したものの100%は事故や怪我によるものです。 この仮説は非常に大きな憶測です。基本的に、それは、神経的な問題がなく、単に整形外科的または動きの問題がある人は、神経システムが少なくとも適切であり問題ではない、と言っているのです。 しかしながら、事故や怪我がおこらず、あなたの肩が時間をかけて徐々に機能不全となったらどうでしょうか。そこには、筋力不足、痛み、または硬さがあるようです。私たちは多くの同じようなテストを行い、「えーと、あなたは筋力を向上させるエクササイズをする必要があります。そして柔軟性のエクササイズをする必要があります」と伝えるでしょう。このことはあなたに次のように自問させることでしょう;「奇妙ですよねぇ。私は、左肩に比べて右肩でより多くのことをしているわけではありません。実際に、ものを書くこととその他少しのこと以外には、私の腕と肩は左右同じだけの負担がかかっています。同じ姿勢の土台から動いています。同じ神経系と代謝系からエネルギーを得ています。それにもかかわらず、片方はダメになって、もう片方はよく動く。本当に片方だけエクササイズをすればいいのでしょうか?なぜなら両方とも同じエクササイズをしているのに、片方は傷ついて、もう片方は力強くなっているから」。 では、この矛盾をどのように調整すれば良いでしょう? エクササイズ不足によってこの状況に陥っていないのにも関わらず、なぜこれを解決するためにエクササイズを処方するのでしょうか? 二つの肩の活動量は同じでした。これをどのようにして解決すればいいでしょうか?単にエクササイズを処方して、それを残りの人生をかけてやらなければいけないと伝えましょうか?それとも単にこれらはシステムを活性化させるでしょうか?そしてもし、システムを活性化させるのであれば、そもそも何がその問題を引き起こしていたのでしょうか?全く同じ仕事と活動量の二つの肩が、一つは悪くなり、一つは良くなっています。なぜでしょうか? 悪い箇所を探していたのに気がつきましたか?私たちはいつも悪い構造を見つけようとします。 もしかしたら、私たちはただ単に悪い習慣を持っているのかもしれません…そして機能不全を見つけるのです。 私は頭の中で、機能は構造に左右されると仮説を立てました。その反対の関係性をじっくりと考えたことはありませんでした。 理学療法の学校で、動きの神経学的な方面からの解釈を議論したクラスを取り始めるまで、私はその焦点の転換を解決する方法の見当がつきませんでした。私は二つのコンセプトに出会いました:赤ちゃんが立ち上がるまでの変遷期に探求する寝返りやずり這い、はいはいといった人生の初期の発達段階において経験する姿勢と動きのパターン。そして、足の踏み出しやバランス、歩行、そして最終的に走ることへと続きます。 これらの姿勢とパターンは、子供が十分休息を取り、よく食べ、そして安全な環境の中にいれば成長と発達の中で自発的に起こります。彼らは単に自身の骨が成長し筋が発達するのと全く同じように姿勢やパターンを探究します。彼らは単にそうするように駆り立てられていて、阻害されることがなければ、それを非常に体系立った優雅な方法でやってのけるのです。
能力の限界というコンセプト(ビデオ)
FMS で知られる。理学療法士グレイ・クックが、コレクティブエクササイズについて、そして基礎的な動きにおける能力の限界を高めるというコンセプトに関してシェアするセミナーからの抜粋です。
コアの発火の順番(ビデオ)
FMSのグレイ・クックが、ロータリースタビリティー、回旋安定性の欠如に対してのコレクティブエクササイズの考え方と、コアの筋群の発火のタイミングの順序の重要さをシェアする、セミナービデオからの抜粋です。
プリミティブパターンの秘密(ビデオ)
ムーブメントスクリーニングと発達過程の動作の関連性は?安定性と可動性、どちらを先に獲得すべきなのか?広く知られるファンクショナルムーブメントスクリーニングのシステムを開発したグレイ・クックとリー・バートンのビデオからの抜粋です。
まずはモビリティー(ビデオ)
乳幼児の発達の過程において、私達人間がまず最初に得るのはモビリティー。そのモビリティーを使って様々な動作を学び、発達の過程の中で徐々に安定させることを学びます。成長の過程で与えられる試練を通ることで、正常に発達のプロセスを通ることができるのです。
FMSモデルを実生活例に応用する~イントロ(ビデオ)
パフォームベターのプレカンファレンスとして提供されたFMSのグレイ・クックとブレット・ジョーンズの指導したセミナーからの抜粋。ファンクショナルムーブメントスクリーンとは?現在翻訳準備中のセミナーからそのイントロ部分をご紹介します。
減らすことで良くなること
私たちがムーブメントスクリーニングを通し、患者の機能不全を見つけた場合、私たちの最初の反応はコレクティブエクササイズを処方することです。結局、この生命体は壊れているのです。そうでしょう? それは、間違った直感ではないのですが、不完全なものかもしれません。生命体がどのように改善していくかを考えるよりも、患者の環境がどれだけ動きの制限に関与しているかも考慮することが重要です。最近の投稿でグレイが “私の意見では、個人が過去に既往歴や動作に伴う痛みがない場合であっても、私はまずは環境を変えることを奨励するでしょう。“と述べています。 私たちは環境を、“生活習慣”と“プログラム”の混合であると定義しています。おそらく我々は、プログラムに関してよくわかっていますが、彼らの生活習慣についてどれだけ理解しているのでしょうか?患者は一日中机で座っているのでしょうか?車での通勤時間が長いのでしょうか?スマートフォン中毒でしょうか? 生活習慣を考慮せずにコレクティブエクササイズを処方するコーチは、悪い食生活を、ただ単に補うだけの食事プランを作成している栄養士と同じようなものです。ケールサラダでは、一日に3杯のソーダの効果を打ち消すことはほとんどできないのと同じように、ほんの5分のコレクティブエクササイズでは、8時間以上も背中を丸めでコンピュータに向かい合っている人にとって、ほとんど効果はありません。 ことわざにもあるように、”転ばぬ先の杖”なのです。 座っていることによる健康へのリスクに関するデータは明白であり、非難されています。座っていることは、新しい喫煙であると討論されることもあるでしょう。より考慮するべきことは、コレクティブエクササイズを処方することは、座っていることの影響を打ち消すには不十分であるということです。コーチや医療従事者として、私たちはプラスを付加するだけではなく、マイナスな行動を取り除いていく必要があります。 2010年5月に“Medicine and Science in Sports and Exercise”に掲載された研究において、研究者は、テレビ鑑賞と運転を1週間に23時間以上行った人は、それらを1週間で11時間以下しか行っていない人に比べて、心臓疾患で死亡する確率が64%以上も高くなることを発見しました。この数字は脅威ですが、驚くべきことではありません。しかし、予想していなかったことは、その危険性は、被験者がどれだけ運動をしていたかということとは比較的関係がなかったということです。被験者の多くは定期的に運動していましたが、椅子に長い時間座っていて、間欠的に運動をしたとしても、心臓疾患のリスクは高まっていました。彼らの運動では、座っていることによる病的影響を中和することはありませんでした。プラスを付加することだけでは、マイナスを中和するには不十分だったのです。 エルゴノミクスを改善することに関するグレイの最近の投稿で、水分補給をモニタリングする、ヨガの太陽礼拝で一日を始める、散歩休みをするといった、座りがちの生活習慣の影響を緩和するための簡単な方法について論じられていました。 もしあなたとクライアントがとても高いフィットネスの目標をたてた場合、環境に焦点を当てることで、その目標を達成する助けにもなるでしょう。 最近、潜在的な健康への影響を数値化する目的で、職場で立っていることの効果についてBBCとチェスター大学が研究を行いました。その研究では、立つことで対象者がかなり高い心拍数を示し(1分間で約10拍高い)、座位でいるよりも、1時間あたり約50カロリー以上を多く消費していることが分かりました。1年間では、これは30,000カロリー以上、あるいは、8パウンドの脂肪と同等になります。 チェスター大学のジョン・バークレー博士は、“それを運動レベルに置き換えて考えたいなら、1年で10回フルマラソンを走ることと同等になるだろう。職場で1日に3、4時間立っているだけで。”と言及しています。 この記事は、決してコレクティブエクササイズを否定しているわけではありません。この記事が意図していることは、コーチや医療提供者にトレーニング環境以外の要因で、クライアントの健康やパフォーマンスに影響を与えうる要因について考えるよう促すことなのです。真摯に、そして善意で健康やフィットネスを強調しているにも関わらず、私達の社会では、1日のプランをタイムスロットに区分けしようとしすぎているかもしれません。クライアントが、真剣に生活習慣をより健康なものにしようとしているのであれば、昼休憩に何かをつめ込もうとするというのではいけないのです。トレーナー、セラピスト、クライアント含めすべての人が、目標に近づけるために環境をどのように変えることができるか、まずはそれを見てみましょう。
飽和 培養 照明
どのように、そしてどこから動作を見るのかについては以前に述べました。 私が以前紹介した3つの疑問を再考し、あなたが今どう感じるか見てみましょう。 各個人のFMSを予想できますか? もし予想ができず、そのパターンにいくらかのメリットがあると信じているならば自分のツールボックスに加えるべきですが、それが決してあなたにとっての唯一のテストであってはなりません。私達が伝えているように、“FMSは次にするテストを決めるのに役立つ”のです。 クライアントやアスリートは自分のFMSを予想できるか? 彼らの視点を知る事はとても興味深いことです:もし彼らの予想が、実際の動作能力や制限を上回っていたり下回っていたりした場合、彼らは恐らくあなたの作るトレーニングやプログラムの判断を理解できないでしょう。 単発のセッションでの客観的なフィードバックループはありますか? たとえ私達の多くが長期的な効果や中期的な効果、数週間における短期の効果までの客観的なフィードバックを使用するとしても、一回のセッションでのフィードバックループは本当に使えているのでしょうか? 忘れないで下さい、私やクライアント、アスリート達の感情はこの一回のセッションに影響するのです。お互いに良くない日で、出来の悪いセッションだと考えることもあるでしょう。お互いにいい日で、出来の良いセッションだと考える日もあるでしょう。ですが、それは本当に良いセッションだったのでしょうか?これが何かの基礎になるのか、もしくは動作パターンを本当に変化させたり進歩させたりすることのない、カロリーを消費するだけのただの一日なのでしょうか? 誰もが良いセッションだと主張することはできますが、それは自分自身に証明する専門家としての報酬なのです。プロフェッショナルな自信は正しくあることから生まれるのであり、正しいと主張することではありません。 基本的に、FMSは一回のセッションにおけるフィードバックループを提供できます。私達が制限を見つけた時(私の著書、ムーブメントのアルゴリズムを使って見つけましょう)、問題に立ち向かうためにルーティンやエクササイズプログラムを通してコレクティブ戦略を使うことは素晴らしいことです。あなたは彼らが30分、45分または1時間とエネルギーを消費するにつれ、問題を明確にしてそれに向き合わせるべくデザインされたコレクティブが、どのように動作パターンを広げるのかわかるでしょう では最悪のケースから始めてみましょう。もしムーブメントパターンにおいて何も変化がなかった場合、次のセッションでやってはいけないことがわかります。神経系はあなたに相づちしてはくれませんし、親指を立てて “そのやり方が正しい“とも言ってくれません。 その一方で、もし一回のセッションで、少しの割合のみ動作パターンのコレクティブに時間を費やすだけで動作パターンを変化させることができれば、あなたがクライアントやアスリートに対してコンディショニングセッションが行えることを証明するだけでなく、プログラムを成長させたことになります。なぜならフィードバックループは、彼らの制限や最も大きな動作不全もコンディショニングセッションの中で向上されたことを示しているからです。 これは2つのことが1度にできるお得なセッションです。なぜなら代謝を押し上げたうえに、動作の質に客観的な変化を与えたから。 ムーブメントスクリーンを発展させ磨きをかけている私達は、誰もが失敗し、コレクティブエクササイズを強要されてしまうことのない機能的テストを作り出そうとしています。 私達のゴールはコレクティブエクササイズでもスクリーニングでもありません。私達のゴールはコンディショニングやプロのフィットネス指導、またはアスレティック指導において否定的な結果を残さないことです。残念ながら、単発のプログラムで、いつでも誰にでもそれを達成するということはできません。それが、プログラムの改良を通じて結果を最大限にひきだすためにデータが重要である理由なのです。 医療現場では、賢い医師達は兆候と症状との明確な違いを理解することによって,主観的立場から自分達を守っています。言うまでもなく私達はこの両方を評価し、常にこの両方の観察をします。客観的な兆候は主観的症状に比べ、治療や処方量において、より信頼のおける判断基準となるのです。 コレクティブエクササイズも、これにとてもよく似ています。なぜなら私達のゴールはフィットネス(適応)ではなく、好ましい動作パターンの反応ですから。FMSは修正前の基準値に対して、フィードバックの為の動作の兆候を与えてくれるのです。 どれほど多くのフィットネスに関心を持つ人達や、 アスレティックパフォーマンスに関心を持つアスリート達が、一年間専門的なコーチやトレーナーの指導を受けていても、まだムーブメントスクリーンで “1”を記録するということに驚きを隠せません。 忘れないでください、ムーブメントスクリーンでの“1”は、最も未熟で指導を受けていない子供でも行える動作パターンの実行における不能を意味します。ムーブメントスクリーンを完璧に行う必要はありませんが、許せる範囲の不完全さはあるにしても、少なくとも動作を遂行できる必要があります。もしクライアントやアスリートがその動作パターンを遂行できなければ、トレーナーやコーチは次のどちらかなのでしょう: 問題に気づかない。問題に気づいているが機能不全を深刻に考慮していない、または問題の一部として考慮していない。 もしこれがあなたならば、実はあなたは機能障害を積み重ねて、とてもみっともない記録に “保存”を押しているのです。 ムーブメントスクリーンで“1”がついた動作パターンは、スクリーニングの基準では不適格と判断されます。あなたがこのパターンに不適格ということは、そのパターンを理解していないため、故意に避け続けていることになります。さらに悪いことに、あなたはそのパターンに負荷をかけてストレスを与えているのです。それはおそらく、解決の一部となる代わりに機能障害に貢献してしまっているでしょう。 “The Mission, The Men and Me (任務、男達と自分) − 前アメリカ陸軍特殊部隊の司令官のピート•ブラバーからの教訓”というとても興味深い本があります。彼は心理学者といくつかの問題解決における問題を克服するためのミーティングについて話しています。心理学者はピートに創造性を説明するために3つの言葉(19世紀後半にハーマン•ヘルホーツによって最初に提唱された)を与えました。飽和、培養、照明という3つの言葉はブラバーの脳の両半球が働き、彼が穏やかな構造の中で創造できる問題解決の手助けとなりました。 心理学者は彼に、問題解決のプロセスや思考のプロセスは飽和から始まると伝えました。情報をつかんで引き込む –それでいてあなたの意見を支持する情報のみでなく全ての面を考慮する。開放的で、客観的で、そしてプロフェッショナルであること。 あなたが考慮するべき情報を得られたと感じた時点で、情報の流れを中断して培養に移ってください。情報を発展させる。話をやめる。質問をやめる。すでに吸収したものを受け取ってください。すでに飽和したものを適用してください。新しいツールにただ感嘆しないでください。うまくいくか見てみましょう。 ムーブメントスクリーンを批評するほとんどの人達は、これを適用せず、私が投げかけた質問のボックスをチェックしていません。彼らは、彼らが使いこなせないツールに対して批評しているのです…そしてツールそのものが悪いのではないかと考えます。それこそが私達が抱える一番の問題なのです。 最後に照明です。これらのボックスをチェックする一方、あなたの内なる光は “それは有効な道筋でない”のか “有効な道筋”なのかを伝えてくれるでしょう。 もしあなたがこの3つの質問に答え、ファンクショナルムーブメントシステムが価値をもたらさないと感じたなら、それはそれで構いません。ですが飽和、培養、照明という過程を通ることを確実にして下さい。 これらのボックスをチェックして下さい。もしできなければ、取り組んでみてください。自分の発見に驚かされることでしょう。
食事と運動
かつて食事と運動という言葉で充分だった時代がありました。 食事とは何か良きものでしたし、身体に悪い食べ物の選択肢はあまりありませんでした。歴史的に私たちは、お腹を満たすために働いてきたのです。 なかには、必要とするものと環境とのバランスがとれていた文化もありました。彼らにとっては「食事」という言葉の前にわざわざ「健康的な」という言葉を付け加える必要がなかったのです。 私たちが健全な食料経済(また健全な食料エコロジー)を壊してこなければ、私たちは健康的な食事と言わなくても済んだかもしれません。 運動(広い用語として活動)にも似たような歴史的背景があります。狩猟採集文化やバランスの取れた農業文化においては、補助的な運動はおそらく必要なかったでしょう。生命を支えるのに必要な活動レベルは、環境が与える試練に見合うレベルの健康を維持していました。 「自分で薪を割れ、二重に温まる。」とヘンリー・フォードは述べました。身体的活動が必要なこと、また、自己保存の必要性があることを私たちは理解しています。 身体的活動と自己保存を調和できる時はいつでも、そうしてください! 私は、農家にしては活動レベルが大変高い、ヴァージニア州の小さな町で育ちました。運動は必要とはされず、かえってそれは無意味なエネルギーの浪費で、たいていは馬鹿げたことと考えられていました。 ストレングスコーチおよび理学療法士として、運動、つまり身体的動作が私のツールのひとつであると認識しつつ、私は、運動科学に関する教育と資格の追究と、この文化の間のバランスをとらなくてはなりませんでした。身体的に十分活動的な、つまり運動が必須ではなく、あくまでも補助的であるようなライフスタイルを再開することができるまで徹底的に矯正するようクライアントや患者に私は常に働きかけています。 サプリメントによる補足が必要な人もいます。彼らは、遺伝的な問題、怪我や長期的な病気のために、バランスの良い食事であったも、必要に吸収できないかもしれません。このような例外では、サプリメントがあることに感謝しましょう。 同様に、怪我や病気がある場合、また知覚入力や認知、運動出力、運動制御のいずれかが妨げられている病理過程にある場合、機能的レベルを確保するために、補助的な柔軟運動やパターン運動が必要になるかもしれません。 いま抱えている問題の発端は、食事と運動を見たとき、補助的な食事や補助的な運動で正常な状態に戻せると推測し、そうした補助的なもので過給してしまうことです。 将来有望なエクササイズ専門家たちが、私と同じ過ちに陥るのをしばしば見受けます:「もっと運動をすれば、またある特定の運動をもっと行えば、すべて改善されるのであろう。」 アルベルト・アインシュタインはかつてこう言いました。「問題解決に1時間与えられたならば、私は55分間を問題について考え、残りの5分間で解決策について考えます。」 私たちは、この逆をしているのではないでしょうか? 悪い動きのパターンに気づいたならば、その原因はどこなのか、何であるのかを理解せずに、局所的な運動学や単純な生体力学による解決に飛びついてしまうのです。「あ、股関節を伸展させる方法を知っている。」 股関節が伸展しない場合、生体組織または環境のどちらかに問題があるということになります。医学的に測定、介入できるような痛みや障害、病気、不全があるならば、私達は、その生命体に何らかの問題があることに同意しなければなりません。 環境が整っていなければ、どれほどブリッジやプランク、ローリングエクササイズをしても生命体のいかなる問題もリセットされることはないでしょう。リセットボタンを探さなくてなりません。関節炎や神経学的問題があるのか、または痛みや不安定性を回避するためなのか、調べなければなりません。 その生命体に何か問題があるという兆候や症状がなく、それでもなお、片側または両側の股関節の伸展が制限されているのであれば、環境に着目してはどうでしょうか? そうすれば、ランニングに出かける時以外は長時間座りっぱなしの人であることが分かるかもしれません。ランニングをしたとしても、自然にランナーがとるようなきれいな起立姿勢をとることはできません。 あまりにも長く座っていると、動かなくてはと必要性を実感させられ、急に活動をし始めます –リフティング、プレス、ランニング、スプリント、ベアクロールなど。彼らは機能的活動と信じて行っていますが、何かに欠けているようです。 環境はあなたが行うことを強調してしまうために、自分で気づく間もなく、1日中座りっぱなしで思うように背筋を伸ばすことさえできないランナーになってしまいます。また、一日中座りっぱなしのために、熱望しているあのトップポジションのアライメントを達成できない、ケトルベルリフターになってしまうのです。 ファンクショナルムーブメントスクリーンは、それが生命体か環境かの判定に大変役に立ちます。たとえばあなたが痛みを抱えていたとして(ムーブメントスクリーンで“ゼロ”)、生命体に問題がないか確認するのは、倫理的にも職業的にも私の役目です。私見ではありますが、基本的な7項目の動きのパターンのうち、ひとつでも痛みが伴うようであれば、医療専門家がこれらすべての各パターンや部位、過程をチェックし、医学的に問題がないと言うまでは、医学的問題があると考えます。 このスクリーニングで、さらなる情報を得るまでのブレーキがかかります。過去半年から1年以内にケガや病歴がなく、しかもスクリーニングの動きで痛みをまったく伴わないがスコアーが‘1’、いわゆる機能障害と呼ばれるものであれば、運動だけではなく、まず私はその人の環境にある問題に取り組みます。 睡眠時間はどのぐらいか? 食事についてはどうか? 休息は十分に取っているか? 回復再生サイクルについて理解しているか? 運動に一貫性をもたせているか? ひとつの運動のパターンを相当量トレーニングするばかりで、他の(バランスや姿勢を矯正する)補完的なパターンを避けたり無視したりしていないか? アインシュタインの言葉は、なぜ人々の動きがそれほど悪くになるのかを熟考するよう促してくれます。運動科学モデルや活動レベルが不足しているからでしょうか? 運動しないにもかかわらずスクリーニングテストでは健康的であると結果がでるような活動レベルの高い人の謎を明らかにしたいと私は考えます。 あなたが都会に住んでいて、座りっぱなしの仕事をしなければならないとしたら達成は不可能でしょう。でも、運動時間を活動時間に置き換えることができたとして、それは必ずしも健康づくりの目標を達成できないということではありません。 かえって、楽しさや、やる気、芸術的価値や、消費エネルギーとのより良い整合性を見つけられるかもしれません。 身体を動かそうとする時、その動きに私たちが関与することは生物学的に重要なことです。私たちを取り巻く自然環境を見てみると、動物たちはその瞬間や現行の活動に100パーセント関与します。私達がランニングできるように腰に2つの電子機器(ひとつはメールをするため、もうひとつは音楽を聴くため)をぶら下げるとき、その環境の中でランニングすることで得られる教訓を受け取ることができるのか疑問です。 エクササイズ産業は、壊れかけたライフスタイル全般に効く特効薬をどうにか作れないかと、新しい本、新しい記事、これまでにないエクササイズパターンの発見を常に要求するでしょう。 運動をする時間が足りなくなるので、スクリーニングやテスト、評価などをする時間が十分にないという人もいます。テストを正しく行えば、必要とする運動の量はかなり少なくてすみ、運動の質や必要な種目が特定されるでしょう。 大工のルールを覚えておいてください:測定は2度、切るのは1度。クライアントや患者の環境に影響する運動プログラムを作成することが、切るということに当たります。生まれながらの行動傾向を断ち切り、彼らに代わって判断をするわけですから、それが害を与えるような判断であってはなりませんし、安全で、彼らの努力に見合った判断でなければならないのです。 自然の環境よりも優れたことはできないと思います。誰かのために食事や運動プログラムをデザインしたいと考えた時、自然よりも早くかつ安全に、経済的に行うことが私たちの責任です。自然は時には過酷です。そして人間は自分が特定の事柄を成し遂げる能力について歪んだ解釈をすることもあります –保守的であり過ぎたり、攻撃的であり過ぎたり。 ベースラインがなければ、調和のとれた食事と健康または調和のとれた運動と活動の健康的なレベルを回復することのできる最も効率的な方法をどのように活用できるのでしょうか? 溢れんばかりの栄養のない食べ物や無数のサプリメントを我々に与えてきた食品産業にとって、ベースラインはホールフードであるはずです。 私たちのベースラインも、クライアントや患者を単に運動に耐えさせるだけではなく、健康づくりや機能回復を提供していることを示すものでなければなりません。 あまりにも長い間、運動は、フィットネス産業の商品となっています。本来の商品は健康そのもの、健康な人であるべきです。焦点が健康そのものではなく運動に置かれ続ければ、私たちはより良くなる前に、悪化してしまうのではないかと恐れます。焦点を健康や健康づくりのバイオマーカーにシフトしてみましょう。そうすれば、運動が活動レベルを補足する新たな方法として浮かび上がってくることでしょう。
モビリティーと知覚
ファンクショナルムーブメントスクリーンでチェックするモビリティーのコンセプトの背景にあるのは、ただどれだけ関節が動くのか、組織が動くのか、ということではない。モビリティーと知覚の関連性に関して述べるグレイ・クックのレクチャーからの抜粋をお楽しみ下さい。
スクリーニングの技術:シンプルな質問
スクリーンは良い考えです。 スクリーンは、投資時間も専門性もあまり必要とせず、潜在的な次の決定と効果的な優先順位に関して、質の高い情報を提供してくれる状況を産み出してくれます。最高のスクリーンは、たとえ時間が短くても情報源が乏しくてもうまくできます。 便利になり、テクノロジーが発達しても、歴史と科学に基づいた操作手順を行うという標準に私たちをとどめておいてくれるので、スクリーンはさらに重要です。スクリーンによって、次の新しい“輝かしいこと”が、すでにある基準値に対しそれ自身を証明してくれるのです。 つまり、スクリーンは方向を示してくれます。これは評価ではありません。ある特定の方向に関する未来の評価が必要であるかどうかを、私たちに教えてくれます。FMSに関する健康・フィットネス業界における最も大きな誤解は、これが評価であると思っていることです。 ムーブメントスクリーニングについて考える時、私たちが自分達のムーブメントスクリーンに組み入れたい特定の動きについて考える前に、よいスクリーニングについて考える方が良いでしょう。自分達の動きの偏見、動きの方法、動きの嗜好、そして動きの能力から自分たちを守らなくてはなりません。 簡単に述べると、ムーブメントスクリーニングの唯一の指針は、“スクリーンを受けた個人が、次のレベルに進めるほど上手に動けていますか?”という質問であるべきです。 “動きのバイタルサインを満たしていますか?”はい。であれば、次の何かに進みます。 人間をスクリーニングする場合、行動の予想というのはとても重要になります。一般的な行動は、多くのことを教えてくれるでしょう。一般的な行動が分からない限り、特定な行動に関して質問することは、最も有効な時間の使い方にはならないかもしれません。心理学者もこれらすべてを良くわかっています。 ムーブメントスクリーンが初めて紹介されたとき、サッカー選手のスクリーン、野球選手の、あるいは、中学生、軍隊のスクリーンなどについての質問を矢継ぎ早に受けました。私の答えは:ムーブメントスクリーンはスポーツ、活動、あるいは、年齢ではなく、種に特化するべきだということ。私は常に、このことを言及しています。当然ですが、異なった分布、学年、持っている本質を持っていたとしても、動きは動きなのです。生まれてから死ぬまでの間、私たちには動きが必要です。 あるレベルでは全生涯に渡る動きの存在に対して、全体に共通する動きための基準があるべきです。生涯を通してのスクリーンは、明快さと方向性をつくり出します。 文字を認識し始めた時から、視力検査表を経験します。ある程度の視力と読み書きの能力があれば、視力検査表は視力が次のレベルの動きに対応できるかどうか、さらに徹底した評価が必要であるかどうか私たちに教えてくれます。もし次のレベルが読むことや書くことであれば、あなたは準備できているかもしれません。もし自動車を運転したいのであれば、周辺視野や色盲について認知していることは役にたちますし、必須なこともあります。プロゴルファーになりたいのですか?距離を読む能力もまた、重要になります。 常に、そしていつも視力検査表から始まります。事態が変化し、不透明になる、あるいは、隠れているものがあるとき、基準値は科学を応用し、客観的に事実にたどり着くための最良の方法になります。 もし私が、基本的で一般的な行動を予想する心理学的スクリーニング質問表を作成するのであれば、それらに正直に答えなくてはならない状況を作りだしながら、シンプルな質問を尋ねなければならないでしょう。これはとても難しい課題です。 最初のジレンマを見てみましょう:シンプルな質問をする。シンプルな質問とは、誰が質問しているかに関わらず、解釈を誤ったり、誤解することのできない質問です。これが、スクリーンの最初で最も重要な部分:異なった状況で異なったスキルレベルの人が再現できる質問であること。シンプルな質問、願わくは、質問に対する答えが、コミュニケーションと責任の両方を改善させることを意図としたものであり、それはまた、2つ目のジレンマを産み出します:その質問に対する答えが、正直であった場合にのみ意味があるということです。 動きに関して尋ねることのできる最もシンプルな質問とは、“できますか、できませんか?”というものです。答えに関わらず、動きを選び、それを実行するように尋ねます。もし相手に選ばせてしまうと、常に上手くいかないでしょう。しかし、正しい質問ができれば、能力以上のことをすることはできません。 一連の質問をすることで、将来の行動を予想しようとするとき、成功と失敗のどちらを予想したいのか決めなくてはなりません。自然の法則に従うのであれば、自然は必ずしも成功する機会を与えてくれるわけではありません。自然は、我々に失敗しない機会を与えてくれます。失敗でも、失敗でない場合でも、私たちは自分自身とその環境について学びます。正しく学べば成功します。そうでなければ、成功しません。 実際、私たちは、失敗しないことからよりも、失敗を通して多くのことを学び、だからこそ、自然に従うことはとても重要なのです。いくつかの失敗は時に受け入れがたい、残酷な結果をもたらすこともあります。生き残れないこともあります。ほんの少しの思慮と学習を、前もってインストールする必要があり、それが異なった環境において自分たちの能力を適応させてくます。 いつも成功するわけでないでしょうが、素早く明確に失敗から学ぶ機会を産み出すことはできます。同じタスク(環境)において同じ方法(行動)で、二度失敗する必然性はありません。望んだ結果が見られないのであれば、常に行動、あるいは環境を修正してください。同時にそれら両方を修正することはフィードバックループを破壊することを忘れないでください。世界中で最も成功している人々の中には、数えきれない失敗をしてきた経歴のある人物もいるでしょうが、その情報を利用し修正したことが、彼らを次のレベルへ導いてくれたのです。